歩いて訪れる奈良時代の銅山跡。
古代長登銅山跡(大切4号坑)の特徴
奈良時代の歴史を感じる、貴重な銅山跡です。
幾つもの立坑や斜坑が点在し、探検心をくすぐります。
美祢市美東町の奥深い自然の中に埋もれた遺跡です。
健脚なら往復1時間かからないくらいで交流館まで戻れます。まあまあの山道なので、交流館で杖を借りるといいと思います。途中説明看板が充実していて勉強になります。
長登銅山の坑道は、今のところ新旧合わせて約40個あると言われてます。大切4号坑は奈良時代に開発された坑道でしたが、大正時代に再開発のためダイナマイトで坑道を広げられた坑道跡です。坑道内は今でも緑色の酸化銅や当時のたがね跡が生々しく残ってます。ガイドの案内なしで入抗するのは禁止されている事をご了承願います。
瀧ノ下大切山四号坑 この瀧ノ下の斜面には、幾つもの立坑・斜坑 が坑口を開けています。坑内は、いずれも内部 でつながっていて、鐘乳洞の様相を呈している 坑道もありますが、鐘乳石の古さより、古代に さかのぼるものといえます。この四号坑は、大正年間に坑口附近が採掘されていますので、入口附近には簡単に入ること ができ、昭和六十三年にテレビで放映されたの もこの坑道です。坑内の壁には緑色の緑青が吹いており、鐘乳石もありますが、坑内は複雑で 立坑もあり、非常に危険ですので、坑道の奥には立入らないで下さい。
奈良時代の銅山跡です。ここで採掘され製錬された銅が「和同開珎」になったり、奈良まで運ばれて「奈良の大仏」になったりしました。「奈良登り」→「ならのぼり」→「ながのぼり」→「長登」と変化していき、長登という地名ができたそうです。長登で採掘、製錬された銅は、馬で小郡あたりの港まで運び、船で瀬戸内海を航行し、大坂から淀川を遡って奈良まで運搬しました。20日ほどかかったそうです。奈良の大仏は、平安時代末期と戦国時代に2回も戦火にあっていますが、大仏様のひざから下と蓮華座は聖武天皇の発案で造られた奈良時代当時のものが残っているそうです。大仏様は「長登の銅」、大仏殿は「徳地の木材」(戦国時代に燃えた)で出来ていたのです。山口県ってすごい!ちょっと鼻高です。
| 名前 |
古代長登銅山跡(大切4号坑) |
|---|---|
| ジャンル |
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| 評価 |
4.3 |
| 住所 |
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2026.8長登銅山文化交流館から歩くと遠いですが、あぜ道を車で進むと駐車場があります。狭くて急斜面の山道ですが、大型車でも上がれました。そこから山道を20分くらい歩くと、一番奥の四号抗跡に行くことができます。周辺には青銅の着いた石が転がっていて、実際に銅が採掘されていたのを実感します。抗内には入ることはできません。最後の方はかなり段差が大きいので、お年寄りや小さなお子さんは注意してください。ここで採れた銅が奈良の大仏に献上されていたなんて、とても貴重な場所だと思います。奈良の大仏を実際に見ると、地元民ながらとても誇らしく思いました!