新井白石の歴史を感じる公民館。
新井白石居宅跡の特徴
新井白石居宅跡は公民館の敷地内にあり、案内板のみの静かな場所です。
江戸時代中期の政治家・朱子学者、新井白石に関連した史跡です。
正徳の治に関わった重要な歴史人物の足跡が感じられる場所です。
公民館の敷地に、説明の看板が立てられているのみ。新井白石は、江戸中期の学者(朱子学、歴史学、言語学など)であり、詩人(日本国内はもちろん、当時の中国の清朝にまで作品が伝わって、絶賛される)であり、政治家(幕府の善政とされる「正徳の治」のブレイン)だった。関ヶ原の戦いで、白石の父が仕えた主家が所領を失い、流浪。ここ上総の久留里で土屋家に仕官できた親子だったが、お家騒動に巻き込まれて追放されるなど、あまり良いことはなかった土地ではある。
公民館と広場になっていて、案内板以外は全く何もありません。
新井白石と正徳の治新井白石(明暦3年(1657年))~享保10年(1725年))は、江戸時代中期の幕政に関わった旗本で、政治家・朱子学者である。当地久留里にも新井白石所縁の地が存在し、父正済が久留里土屋家家中の許に仕官した事から、江戸から移り住んだという。その新井家屋敷は、現在の君津市立久留里小学校正門付近にあったと推定されている。中学歴史・高等学校日本史を真面目に勉強した方々には御存知であろう人物で、テスト問題でも「新井白石」「正徳の治」の穴埋め問題が出題された事を思い出す。しかし、「正徳の治」と称された政策の内容を具体的に答えられる方は、殆ど居ないのではないだろうか。それは時々、大学入試レベルで出題されることがあるらしい。そこで、懐かしい昔を振り返り、少し勉強してみることにした。・正徳金銀の発行(貨幣改鋳)・海舶互市新例・勘定吟味役の再設・朝鮮通信使待遇改訂・閑院宮家の創設・武家諸法度改定(「宝永令」)・生類憐れみの令を廃止・対琉球政策各項目の内容は割愛するが、江戸時代の政治はもう既に、現代にも通ずるような、巧みで複雑な政策を打ち出していた。安定した幕政を目指す政治手腕には、驚嘆の念を禁じ得ない。
公民館になってる。
名前 |
新井白石居宅跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
2.8 |
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看板だけでした。