1200年前のロマン、払田の柵へ。
払田柵跡の特徴
1200年前に建てられた払田柵のスケール感に驚きます。
秋田の歴史を感じる、整備された遺跡公園が魅力です。
謎に包まれた史跡が、ロマンを感じさせる不思議な空間です。
明治時代に柵木が見つかり昭和始めの本格的調査で九世紀初頭の古代城柵遺跡だと判明した遺跡です。史書に該当する城柵が見つからない「無名不文の遺柵」ですが地名から払田柵跡と呼ばれています。出土した柵木の年代測定から奥羽山脈を挟んだ東側の志波城や胆沢城と同じ坂上田村麻呂らによる征夷事業による造営と考えられています。硬質泥岩の丘陵を囲むように外郭が築かれています。この硬質泥岩は三大石器材料の珪質頁岩で復元された外郭南門の石塁にも使用されています。知名度は?ですが発掘調査に基づく復元が進んでいるのと案内所(訪問時閉)や秋田県埋蔵文化財センターとの近接や田園が広がる風景など環境が整っていました。
教科書で柵のことは習っていても、実際のスケール感は実物を見ないと知る事は出来ませんね。中央部の建物の建築や、柵の壁の立てる範囲をもっと広く再現できれば、ある意味各地にたくさんある 戦国や江戸のお城より貴重な体験ができる場所になりそうです。
約1200年前の平安時代に建てられた、払田の柵です。当時此処に住んでいた蝦夷を政治的、軍事的に支配する為に造営されました。西暦801年に建てられたと考えられていますが、歴史書にも明確な記述が無い遺跡です。歴史のロマンを感じる場所でした。
ほったのさくあと。平安時代初期に東北地方の蝦夷支配のために造られた政庁跡、城柵跡。平城京や平安京の造りに似ている。車で走っていて寄り道しました。東北地方の蝦夷と聞くと、どうも知りたいことが多くなります。私たち現代人との関係、西から徐々に支配地域を増やしていく新勢力、同化と彼支配を余儀なくされながら交わりを深くしていく蝦夷、アイヌ文化との関係や違い、戦いや交流の歴史、実相はいかばかりであったのか。興味は尽きません。資料館も充実していて楽しかった。他の古代柵跡も順次訪れようと思う。
Google先生の案内で行くと裏側に着きます。そして歩いて行く事になるので標識の通りに進むべし。ゆっくり時間を取って見に行く場所です。機会があったら行ってみます。隣の庭園も紅葉の頃が綺麗らしいです。誰も人がいないので、女性一人だと寂しいかも💦
だれもいない広い敷地にしばらくいたらタイムスリップしたような感覚に陥りました。
「ほったさく」と読みます。古代の城柵跡で、これほどの規模でありながら史書に記載がないため「幻の柵」とも呼ばれています。それゆえに売り出し方も定まらず名所旧跡としての知名度は相当に低いと思われますが、わずかばかりの再現建築物とかつての建築物の所在を示すあまたの柱、そして広々とした空間が史的想像力を刺激します。地方ゆえの強みと申しますか、周辺に高い建物がないので遺跡の鑑賞に没入できるのも魅力です。当時としてはなみはずれた規模の城塞であり、朝廷の威を示す統治の拠点であったと推測されますが、それほどのものでありながら昭和のはじめに発見されるまで存在が知られておらず、専門家の間ではいまなお論議の対象となっているそうです。発掘と保全に貢献したのは、付近一帯の農地を所有していた池田家です。近くにある旧池田家庭園は国指定の名勝、邸宅は国指定の重要文化財です。他の名所としては「東北の左甚五郎」と称えられた円満蔵翁が彫刻を手がけた南陽院と高梨神社、本殿が国の重要文化財に指定されている古四王神社などがあります。古四王神社は新潟県北部と東北にのみ点在する北方鎮護の神を祀る神社で、土着の信仰と柵の関連に浪漫を感じます。
2021年8月21日に見学しました。今回で3度目になります。朝廷の城柵官衙遺跡になります。9世紀前半に設置され、10世紀後半頃まで政庁として機能していたものと思われます。ただし、正確な築造年や消滅年は、不明のままです。多賀城→雄勝城→払田柵→秋田城の官道を確保する重要な拠点だったのではと思います。
当時の最北で未開地である秋田に中央の支配体制があった事に驚きます。
名前 |
払田柵跡 |
---|---|
ジャンル |
|
電話番号 |
0187-69-2397 |
住所 |
|
HP | |
評価 |
3.9 |
周辺のオススメ

724年、現在の宮城県多賀城市に、その地名の由来となる古代城柵が創建された。2024年で創建から1300年となるのを記念して、多賀城をはじめとする古代城柵遺跡で御城印が配布された。多賀城(宮城県多賀城市)牡鹿柵(宮城県東松島市)伊治城(宮城県栗原市)払田柵(秋田県大仙市・美郷町)城輪柵(山形県酒田市)胆沢城(岩手県奥州市)志波城(岩手県盛岡市)徳丹城(岩手県矢巾町)御城印目当てに城柵巡りをした。古代城柵は、律令国家が本州東北部に支配域を拡大するための拠点として造営した行政と軍事の機能を併せ持った施設と考えられている。ーーーーーーーーーー2024年10月11日この日は、秋田県大仙市・美郷町にある払田柵跡に行った。払田柵は文献資料に記録が残っていない無名不文の幻の城柵だが、雄勝城、第二次雄勝城とする説がある。2017年度の払田柵跡の第151次調査で出土した漆紙文書に「小勝城」、「秋田城」の文字が確認された。小勝城は、「続日本紀」に天平寶字4年(760年)創建の記録が残る「雄勝城」と考えられる。一方、払田柵創建に使われた角材は年輪年代法による測定で、801年の伐採と判明している。材木の伐採より、資料上の創建年が古いため、払田柵をそのまま雄勝城とすることはできない。元々別の場所に造られた雄勝城が、現在の場所に移転されたとする説がある。ーーーーーーーーーー城柵巡りをした中で、ここの景色が一番良かった。払田柵跡は、横手盆地北側の仙北平野中央部に位置している。遠くから見ると、かつて政庁があった丘陵は、田んぼの海に浮かぶ小島の様だった。周囲に高い建物はなく、丘の上からは遠くまで見晴らせた。城柵があった当時の建物がいくつか復元されていた。それが無ければ、大勢の人たちが暮らしていた時代があったとは思えない程、静かでのどかな処だった。