立山開山の少年像が待つ場所。
佐伯有頼少年像の特徴
若き日の慈興上人を象徴する彫刻です。
日本三大霊山の一つとしての歴史を感じられます。
立山を開山した佐伯有頼の銅像が魅力です。
日本三大霊山の一つ、立山を開山した少年の銅像です。伝説ではクマを追いかけて山頂まで行ったという内容ですが、実際のところはわかりません。ただ、登るには今と違ってものすごい労力だったでしょう。この像は立山連邦を指差しています。
| 名前 |
佐伯有頼少年像 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[金土日月火水木] 24時間営業 |
| 評価 |
3.7 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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立山を開山した佐伯有頼(慈興上人)の若き日の像。佐伯有頼は伝説上の人物で、実在する越中国司・佐伯宿祢有若の息子として伝承されている。立山開山縁起(略記)では以下のように紹介されている。『第四十二代文武天皇がある夜夢を見られ、「いま、越中の国に騒乱絶えず。佐伯宿禰有若をして治めしむれば即ち平安に至らん」と神のお告げがあった。まもなく越中国司に任ぜられた有若は一族を伴って都を発ち、加越国境の倶利伽羅山にさしかかった。そのとき、紺青の空から一羽の白鷹が舞い下って有若の拳の上にひらりと止まった。有若は喜び勇んで「我、越中に入らんとするにこの奇瑞を得たるは神の恵みなり。終生治国の象徴とせむ」と言って、長旅に疲れた一族を励ました。有若には子供がなく大変寂しい思いをしていたが夫婦ともどもに東方の神山に心願を立てて祈っていたところ、ある夜神立ちがあり「我は刀尾の明神なり。汝らに一子を授ける。有頼と名づけよ」との言葉を聞いた。やがて一人の男子が出生し有頼と命名された。そして有頼が十六歳になった夏のある日、有頼は父が何よりも大切にして飼っている白鷹をひそかに鷹を持ち出し野に放った。すると白鷹はどうしたのか急に羽ばたいて大空に舞い上がり、辰巳(南東)の方を指して飛び去ってしまった。有頼は驚いて彼方此方を探し回り、大川が流れている対岸の松に白鷹が止まっているのを見つけた。有頼が白鷹を呼ぶと、白鷹は有頼の手に止まろうとした一瞬時、側の竹やぶから一頭の黒熊が踊り出たため、白鷹は驚いて再び大空に舞い上がった。有頼が怒って熊を射れば、矢は月の輪の横に刺さり、熊は走り去った。有頼が追ってゆくと、広々とした山原にたくさんの池があり、葦が生い繁った中に神座(芦峅)があり、側に白髪を垂れた三人の老婆が待っていた。老婆は有頼に向かって「汝の尋ねる白鷹は東峰の山上にあり。汝行かば必ず得らるるも、川あり坂あり至難の道なり。汝もし初一念を貫かんと欲すれば最も勇猛心と忍耐心を要すべし。苦を厭うならば早々ここより立ち去るべし」と教え諭した。有頼は老婆に感謝し、大川を渡って険しい山坂をたどること七日七夜、ついに山上の高原に立った。そこには白鷹が天を翔けり、黒熊は地を走り、不思議やともにそろって岩屋(玉殿岩窟)にかけ入った。有頼が刀を抜いて岩屋に踏み込めば、そこは暗い洞穴と思いきや、光明燦然として五彩に輝き、幽香ふんぷんとして極楽の霊境である。奥に阿弥陀如来と不動明王の二尊の聖姿が立ち並び、しかも己が射た矢が阿弥陀如来の胸に打ち立って血は傷ましく流れている。有頼は大いに驚き「如何なる前世の宿業か。かかる大罪犯して尊き聖身を傷つけまいらせ、せめてもの申しわけにも」と刀を逆さにして我が腹をかき切ろうとしたとき、両尊はこれを押し止めて有頼に告げて申された。『我、濁世の衆生を救わんが為、十界をこの山に現し、幾千万年の劫初より山の開ける因縁を待てり。この立山は峰に九品の浄土を整え、谷に一百三十六地獄の形相を現し、因果の理法を証示せり。我、汝を得てこの山を開かんと待つこと久し。汝の父をして当国の司たらしめしは我なり。汝の生をこの世に与えしも我なり。畜生の姿を借り、身を損ないて導きしも、また我なり。汝の名を顧みよ。頼み有りと申すにあらずや。阿弥陀如来は即ち伊邪那岐神の本地にして、不動明王は即ち天手力雄神の本地なり。汝、切腹など思いもよらず、これより直ちに当山を開き、鎮護国家、衆生済度の霊山を築け』時に大宝元年七月二十五日の早朝と伝えられる。有頼は父有若にこの事を告げ、父と同道して都に上り朝廷に奏上したところ、文武天皇は勅命を下して立山頂上より東西十三里、南北三里を霊域と定めた。有頼は同志の修行者と力を合わせて道を切り開き、橋を架け、室所を建てて諸人の参詣禅定に充て、絶頂に立山大権現を祀る霊殿を築いた。後に有頼は出家して慈興と号し、山麓芦峅寺に居を構え、常願寺川の南北六箇所に堂塔社殿を建立し、立山禅定の弘宣に一生を捧げた。有頼は齢八十三歳にして自らの定命を悟り、天平宝字三年六月七日、竜象洞と称せられる土穴の中に生きながら入定した』佐伯有若は延喜5年(905年)に越中守として実在しており、文武天皇の在位(697年~707年)から200年も後のことであるため、有頼の実在性と共に立山開山縁起は伝説となっている。