高照神社の明るい霊廟。
津軽信政公廟所の特徴
高照神社の裏手に位置する、静かで明るい光が差し込む場所です。
霊廟までを結ぶ杉の路が魅力的で、心が安らぐ散策が楽しめます。
津軽信政の廟所は、訪れる人に気持ちよい空間を提供しています。
神社の拝殿本殿のさらに奥にある廟所。中までは入れないのかな。
Oct'17.2021 参詣までは近付けず画像撮影。
ご本人希望の場所だそうで…静かでありながら明るい光の差す気持ちよい場所でした。
高照神社裏手から霊廟までまっすぐ伸びた杉の路を行きます。梅雨時の為か石畳には苔が生え、杉が鬱蒼としげり森と川のせせらぎの音しか聞こえずとても神秘的でした。隣接する歴史館のアーカイブで信政公葬送の図を見てから行くと感慨深いです。
高照神社の奥にあります。津軽藩、津軽信政公の廟所です。高照神社、本殿の横の道を通り、奥に続く一本道を行くと、奥にあります。
津軽信政の廟所。
| 名前 |
津軽信政公廟所 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 評価 |
3.7 |
| 住所 |
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津軽藩初代の為信は、南部家の家臣からのし上がり津軽一帯の大名にまでなった人物です。秀吉に近づいて領土安堵を受けるなど、外交面でも卓越した人物だったようです。そして二代目信枚です。こちらは徳川家康の養女・満天姫を正室に迎えるなど徳川家との関係を確立させ、藩の地盤を確固たるものにした殿様でした。三代目信義のときに船橋騒動(寛永11年―1634年)や正保の騒動(正保4年―1647年)などのお家騒動が立て続けに起こりました。しかも信義が生した子女は男25人・女26人!有名な徳川家斉の男26人・女27人に匹敵します。当然金もかかりますし閨閥での争いも多かったでしょう。藩政はかなり脆弱化しました。そして四代目信政です。明暦2年(1656年)2月2日に家督を継ぎましたが、その年の津軽地方は記録的な冷夏と天候不順に見舞われていました。しかも前述の内政問題も尾を引いていましたから大変な時に「就任」したわけです。彼は新田開発、治水工事、山林制度の整備をおこないました。そして養蚕業、紙漉の育成に努め藩の財政を安定させたのです。で、これが信政公の廟所です。1710年(宝永7年)に信政公が亡くなった後、5代藩主・信寿公によって建立されました。街道からは延々と立派な石畳が敷かれており、随分と手の込んだお墓です。しかし拝殿の門は雪のため(多分)倒壊していて、往時の威容を示す縁はありません。「進入禁止」の立札が無かったので入り込んでみましたが、拝殿の戸は押し倒され内部は埃まみれ!惨憺たるありさまでした。一体何処の無礼者がやったんだか!…………..もしかして🐻?2026.5.29