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名前 |
乾橋 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
5.0 |
太宰治が『津軽』のなかでこの橋のことを書いていますね。昭和19年の作品。以下がその部分です。中畑さんのひとり娘のけいちやんと一緒に中畑さんの家を出て、「僕は岩木川を、ちよつと見たいんだけどな。ここから遠いか。」すぐそこだといふ。「それぢや、連れて行つて。」けいちやんの案内で町を五分も歩いたかと思ふと、もう大川である。子供の頃、叔母に連れられて、この河原に何度も来た記憶があるが、もつと町から遠かつたやうに覚えてゐる。子供の足には、これくらゐの道のりでも、ひどく遠く感ぜられたのであらう。それに私は、家の中にばかりゐて、外へ出るのがおつかなくて、外出の時には目まひするほど緊張してゐたものだから、なほさら遠く思はれたのだらう。橋がある。これは、記憶とそんなに違はず、いま見てもやつぱり同じ様に、長い橋だ。「いぬゐばし、と言つたかしら。」「ええ、さう。」「いぬゐ、つて、どんな字だつたかしら。方角の乾《いぬゐ》だつたかな?」「さあ、さうでせう。」笑つてゐる。「自信無し、か。どうでもいいや。渡つてみよう。」私は片手で欄干を撫でながらゆつくり橋を渡つて行つた。いい景色だ。東京近郊の川では、荒川放水路が一ばん似てゐる。河原一面の緑の草から陽炎がのぼつて、何だか眼がくるめくやうだ。さうして岩木川が、両岸のその緑の草を舐めながら、白く光つて流れてゐる。「夏には、ここへみんな夕涼みにまゐります。他に行くところもないし。」五所川原の人たちは遊び好きだから、それはずいぶん賑はふ事だらうと思つた。「あれが、こんど出来た招魂堂です。」けいちやんは、川の上流のはうを指差して教へて、「父の自慢の招魂堂。」と笑ひながら小声で言ひ添へた。なかなか立派な建築物のやうに見えた。中畑さんは在郷軍人の幹部なのである。この招魂堂改築に就いても、れいの侠気を発揮して大いに奔走したに違ひない。橋を渡りつくしたので、私たちは橋の袂に立つて、しばらく話をした。「林檎はもう、間伐《かんばつ》といふのか、少しづつ伐つて、伐つたあとに馬鈴薯だか何だか植ゑるつて話を聞いたけど。」「土地によるのぢやないんですか。この辺では、まだ、そんな話は。」大川の土手の陰に、林檎畑があつて、白い粉つぽい花が満開である。私は林檎の花を見ると、おしろいの匂ひを感ずる。「けいちやんからも、ずいぶん林檎を送つていただいたね。こんど、おむこさんをもらふんだつて?」「ええ。」少しもわるびれず、真面目に首肯いた。「いつ? もう近いの?」「あさつてよ。」「へえ?」私は驚いた。けれども、けいちやんは、まるでひと事のやうに、けろりとしてゐる。「帰らう。いそがしいんだらう?」「いいえ、ちつとも。」ひどく落ちついてゐる。ひとり娘で、さうして養子を迎へ、家系を嗣がうとしてゐるひとは、十九や二十の若さでも、やつぱりどこか違つてゐる、と私はひそかに感心した。「あした小泊へ行つて、」引返して、また長い橋を渡りながら、私は他の事を言つた。「たけに逢はうと思つてゐるんだ。」「たけ。あの、小説に出て来るたけですか。」「うん。さう。」「よろこぶでせうねえ。」「どうだか。逢へるといいけど。」(太宰治『津軽』)