医王山大安興寺、因幡の名刹で参拝。
大安興寺の特徴
大安興寺は因幡三十薬師霊場の一つです。
本尊は薬師如来で、高野山真言宗に属しています。
医王山大安興寺は歴史ある名刹です。
地元のお寺さん。
因幡観音霊場 十八番札所 高野山真言宗 本尊 薬師如来。
因幡の名刹 「医王山大安興寺」大化元年(645)にインドの法道仙人開基により開かれたとされる医王山大安興寺は、高野山真言宗の寺院です。和銅2年(709)に、行基の手により伽藍が整えられ、元明天皇から「医王山大安興寺」の勅号を賜ったと縁起にあります。「因幡誌」の記述の中の仏閣の部には、真言宗寺院として、医王山大安興寺を含む以下5ケ寺が記されています。・医王山大安興寺・宇谷山豊乗寺(智頭郡三田郷新見村)・霊石山最勝寺(八上郡石田下荘片山村)・波羅密山新興寺(八東郡四分保新興寺村)・高瀬山明光院(邑美郡品治郷薬師寺)これらは、中世期を通じて因幡の有力な寺院として、在地の豪族の保護をうけて、密教本来の加持祈祷を行っていたとされています。(「鳥取県史」)戦国時代になると、大安興寺も戦乱に巻き込まれることとなった。永正11年(1514)6月、兵火にあって寺の迦藍・諸堂から経典等に至るまでことごとく焼失しました。天文21年(1555)、尭淳僧都が寺の再建を企て、広く人々に寄付を募って歩いた。こうして、大安興寺は元の姿に復旧しました。しかし、天正6年(1578)、武田高信が散岐郷や寺領押妨のために来襲し、寺は再び焼失しています。この時は栄順が景石城主磯部氏の帰依を受けて城下に一寺を建てることを許されたが、大安興寺の本格的な復興は寛文12年(1672)に鳥取藩主池田光仲の庇護を得てからとなり、医王山の山上に堂宇が建てられ、高野山親王院の末寺となった。幕末期に僧月照と西郷隆盛が密かに訪れ、2か月余り隠れ住んだとされ、月照署名の短冊が残されています。この後、昭和37年(1962)に医王山の山上にある建物を焼失し、現在の位置である麓の国道脇に再建されました。昭和62年(1987)には、護摩堂落慶法要と併せ行うかたちで、寺院開創1350年記念大法会が盛大に執り行われています。仏像:本尊薬師如来 十一面観音像 愛染明王像仏画:絹本着色釈迦十六善神像(鎌倉時代、県指定保護文化財第1号) 絹本不動明王図 絹本愛染明王図 絹本著色三宝荒神図 五大明王図(以上市指定保護文化財)札所:因幡西国33観音霊場第第18番札所 因幡薬師霊場第19番札所檀家:290戸(鳥取市用瀬町内、河原町内など)
名前 |
大安興寺 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0858-87-3352 |
住所 |
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評価 |
4.0 |
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因幡三十薬師霊場の参拝でお伺いしました。高野山真言宗のお寺で医王山大安興寺といい、薬師霊場第十九番札所になります。御本尊は薬師如来像(秘仏)で室町時代の作で日光菩薩像・月光菩薩像とともに大きな厨子の中に安置されています、十二神将像は内陣欄間の左右に祀られています。本堂には他に左側に黒い厨子の中の十一面観世音菩薩像・愛染明王像右側に阿弥陀如来像・金剛歌菩薩像また寺宝の珍しい弘法大師像(萬日大師像:正面を向かずにお顔を左側に向けた像)が安置されています。大火元年(645年)にインドからの渡来僧法道仙人よって医王山上に開創されたのが始まりと伝えられています。和銅二年(709年)に行基菩薩が自ら彫刻した丈六の薬師如来像を安置し、元明天皇の安産祈願が行われ見事念願成就すると寺号の「医王山大安興寺」の勅号を賜っています。境内が整えられると天皇の祈願寺として寺運が隆盛し最盛期には境内に七堂伽藍が建てられ三院十六坊を擁する大寺院となり寺領も七千石を拝領していたといいます。永正十一年(1514年)と天正六年(1578年)の兵火により全山焼失し急速に衰退しましたが、寛文十二年(1672年)鳥取藩藩主の池田光仲公により再興され池田家歴代の祈願所として庇護されて再び寺運が隆盛しました、幕末には西郷隆盛や月照上人など当寺を訪れています。昭和三十七年(1962年)の火災により医王山山頂の建物を再び焼失したため、昭和四十年(1965年)に医王山山頂から医王山山麓の現在地へ移転した。大安興寺の寺宝に多数の仏画があります「絹本著色釈迦十六善神像図」「絹本著色不動明王図」「絹本著色愛染明王図」「絹本著色三宝荒神図」「五大明王図」等ですが様式から鎌倉時代の作とされ医王山上での寺の隆盛が窺われます、現在は鳥取県立博物館に寄託されています。平成三十年(2018年)寺所蔵の西郷隆盛の漢詩掛軸が西郷隆盛の直筆であることが判明しました。