太田茶臼山古墳の壮大なオーラ。
太田茶臼山古墳(継体天皇陵)の特徴
太田茶臼山古墳は第26代・継体天皇陵で、歴史的な価値が高いです。
地元ではごりょうさんとして親しまれ、特別なオーラがあります。
226メートルの大きな墳丘と整備された美しい環境が魅力的です。
2022.10.13第26代継体天皇の陵とされているが、年代が異なるため、高槻市の今城塚古墳を陵とする説が有力だそうだ。宮内庁により陵として管理されているため、拝所はあるが観光として見学できる場所はない。しっかりとした調査が欲しいところだが、私の生きているうちは無料だろうな。
太田茶臼山古墳(おおだちゃうすやまこふん=宮内庁(くないちょう)比定(ひてい)「継体天皇(けいたいてんのう)三島藍野陵(みしまあいのみささぎ)」)1.「御陵(ごりょう)さん」ここは、地元の者から。「御陵(ごりょう)さん」と呼ばれて、親しまれてきました。60年ほど前は、田んぼと松やススキの生える繁み(陪塚=ばいちょう)とがあるだけで、「藍野病院(あいのびょういん)」も「小じんまり(こじんまり=コンパクト)」としていて、とても寂しいところでした。そのころの私たちには、今のような「住宅地」になるとは、とても思えないところでした。子供だった私が竹垣のすき間から、中をのぞくと堀に小舟が浮かべてありました。また、その頃は、「心霊スポット」に扱われてもいました。深夜、帰宅を急ぐ人が、タクシーの運転手さんに「”御陵(ごりょう)さん”まで、行ってください」と行先を告げると、それを聞いた運転手に「イヤな顔をされた」とその人から言われました。その頃には「火の玉を見た」という騒動もありましたね。2.「藍野(あいの)」の開発この古墳の300mほど北東には、茨木市安威(いばらきしあい)を流れる安威川の井堰(いせき=小型のダム)「五社井堰(ごしゃいせき)」から、取水した古代の国家事業の用水路「三島大溝(みしまのおおみぞ)=五社井路(ごしゃせいろ)」が流れていて、「摂津国三島郡(つのくにのみしまぐん)」を二つに分けた際の「島上郡【しまかみぐん=三島上郡(みしまかみぐん)=高槻市・島本町】」と「島下郡【しましもぐん=三島下郡(みしましもぐん=茨木市、摂津市)】」の境になっています。※1.「藍野(あいの)」と「阿武野(あぶの)」「阿武野」は、明治時代になってから、霊仙寺(りょうぜんじ)、奈佐原(なさはら)、塚原(つかはら)、土室(はむろ)、氷室(ひむろ)、宮田(みやた)、赤大路(あかおおじ)の7つの集落をまとめた時に作った地名です。大相撲(おおずもう)の部屋に「阿武松(おうのまつ)部屋」があり、その部屋の看板力士は「阿武咲(おうのしょう)」です。「阿武(おう)」は古語の「あふ」ですから、「阿武」は、「あふ」であり、「あい」と発音が似ているので、元は同じだったということです。※2.「〇〇野(の)」「〇〇野」という地名は「緩やかな斜面」という意味です。扇状地(せんじょうち)として土砂が積もって生まれた土地が、河川が再び掘削(くっさく)するようになり、地表面が水の便が悪くなってしまった土地ということです。そのために水田に適さなくなった「荒野(あれの、こうや)」という意味です。※3「五社井路(ごしゃせいろ)」「藍野(あいの)」は、用水路の「五社井路(ごしゃせいろ)=三島大溝(みしまのおおみぞ)」が、開削(かいさく)されるまでは、赤や青の染料が採れる野草を示す「藍(あい)」が生える荒野(あれの)だったのでしょう。「五社井路(ごしゃせいろ)」のおかげで「太田(おおだ)」の東にも水田(すいでん)がつくられたのです。北東の高田町(たかだちょう)は、水路を見下ろす土地で、近年まで「野」のままでした。3.継体天皇(けいたいてんのう)「継体天皇」と聞いて、ピンとこない人のために説明しますと。古代の有名人「聖徳太子(しょうとくたいし=厩戸王)の曽祖父(そうそふ=ひいおじいさん)です。4.古墳の被葬者について平安時代の法令集「延喜式(えんぎしき)」によると、継体(けいたい)大王(だいおう=天皇)の陵墓は「島上郡藍野陵」とあり、「島下郡藍野大字太田(おおだ)字吉志部(きしべ)」にあたりません。今城塚(いましろづか)のある「島上郡阿武野(しまかみぐんあぶの)」は、三島郡(みしまぐん)が二つに分けられる前は「三島郡藍野(みしまぐんあいの)」を一緒に構成していたと考えられます。したがって、「継体天皇島上郡藍野陵」は今城塚古墳ということになります。その人物は、ヤマト政権と結んで国家事業として「三島大溝」を開削させた「応神天皇」に近い有力豪族が、この古墳の被葬者(=埋葬された人物)だったと考えます。茨木市五十鈴町の「溝咋(みぞくい)神社」があります。祭神の三柱のうちの一柱は「三嶋溝咋耳命(ミシマノミゾクイミミノミコト)であり、三島の淀川沿いの低湿地の開発を行った首長です。「五社井路」の下流にあたる「玉川」の開削に関係します。この神の娘の女神「玉櫛媛命(たまくしひめのみこと)」と「事代主命(ことしろぬしのみこと)」の間の娘、女神「姫踏鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)」は、神武天皇の后になったと「日本書紀」にある「ヤマト政権」と深い関わりがある神です。私は、その何代か後の豪族「溝咋氏(みぞくいうじ)」の首長の墓であると考えています。「五社井路」は、「溝咋氏」の勢力範囲に流れ込むためでもあります。※3.「前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん=鍵穴型の古墳)」の形近年、前方後円墳の研究が進み、形状の比較が行われています。白石太一郎氏(大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長)の講演を聴きました。その話によると、この古墳は、日本で二番目に大きい誉田御廟山古墳【こんだごびょうやまこふん=応神天皇陵(おうじんてんのうりょう)】を原型として作られた2分の1の規格のものだそうです(それでも、淀川右岸最大の墳丘です。)。同じ年代の古墳の中で「最大」でなければならないはずの「大王(=天皇)」の古墳(墓)が、他の古墳(墓)より小さいということは考えらえません。(だから、「継体天皇陵」ではありません)※4.ハニワの結びつき5世紀前期の誉田御廟山古墳は、高温が得られる穴窯(あながま)で焼かれた埴輪を使用した最初の古墳であるとされています。そのことは、この太田茶臼山古墳の北東方向に埴輪工房跡(新池遺跡=ハニワ工場公園)があることと結びつきます。この古墳の被葬者は、八幡宮(はちまんぐう)の祭神「応神天皇【誉田別命(コンダワケノミコト)】=八幡神(はちまんしん)」との交流のあった親しい関係のある人物ということになります。また、古墳を取り巻く周濠(しゅうごう=ホリ)の周辺から発掘された「埴輪片(はにわへん)」の科学的分析では、5世紀前期のものとのデータも出ています。(その点でも6世紀前半の「継体天皇陵」ではないことになります。)※5.「茶臼山(ちゃうすやま)」茶臼山とは、古くから広く前方後円墳(鍵穴型の古墳)を指す言葉として用いられてきたものです。前方後円墳は、木々がこんもりとして丸い山のように見えます。しかし、小さいものなら二段、この古墳のように大きなものでは、三段のテラスを持っています。昔の人は、それを抹茶を挽く石臼(いしうす=ミル)の臼石(うすいし)を積んだ形に見立てたのです。大きな山の上に小振りな山が乗っかった山で「茶臼山」なんですね。※5「氏(うじ)」今の日本語で使われている「氏(し)」は、「さん(英語で”Mister”)」の代わりに使われています。しかし、「氏(うじ)」は、「氏族(しぞくu003d”Clan in Scotland”」で、豪族という意味です。5.近年の姿西国街道が高槻市側から茨木市に入る少し手前の辻の北東には、かつて、「昭和天皇行幸(しょうわてんのうぎょうこう)の腰掛け(こしかけ)石」と松の木がありました。令和になった、この前も、即位後の今上天皇陛下が、「即位のご報告」に皇后陛下とともに訪れておられます。という関係で、「天皇陵」には、皇室の警備にあたる「皇宮警察」の警察官が常駐しているわけです。【「継体大王(天皇)については、「今城塚古墳」のクチコミにも書いておきますのでそちらもご覧ください。】6.追記(2021年6月19日)この古墳には、幅の広い「周濠(しゅうごうu003d濠(ほり))」があります。古墳の周りをぐるっと歩くと、不思議なことに気がつきます。それは、「周濠」に流込む水路が見あたらないことです。古墳の立地は、「富田台地(とんだだいち)」と呼ばれる台地上にあります。西側の一級河川「安威川」は、約15m低いところを流れています。東側の「五社井路(ごしゃせいろ)」も「周濠」の水面より、数m下を流れています。北摂の山々へとつながる北側は、というと緩かな「崖(がけ)」となっていて、やはり、低くなっています。古墳のあるところと、北の高槻市塚原との間には、北には「真上断層(2本に分かれて通っています)」、南には「安威断層」という3本の「活断層」が通り、その間が沈下していて「茨木低地」の一部となっています。「名神高速道路」は、断層沿いを通っています。むろん、水路はありません。南側は、下っていくので水路はありません。不思議なことに流込む水路がないのに、「周濠」には水があるのです。これは、地下水が湧き出ていると考えられます。南方の西河原には「疣水(いぼみず)神社」があって、「ご霊水」をいただけます。また、台地の南端には、酒造りで知られた「富田」の町があって、銘水が汲みあげられています。他には、有名な日本を代表的な古墳の「大山古墳(仁徳天皇陵古墳)」があります。和泉丘陵が大阪湾に落ち込む「三国ヶ丘」の端に位置していて、「住吉津」に入る外洋船に、威容を誇る世界最大の墳丘を持つ古墳です。この古墳にも、周囲を取り巻く二重の「周濠」がありますが、歩いて回るとどこからも、流れ込む水路がありません。やはり、この古墳も「周濠」は、地下水によって満たされているとしか考えられません。古墳にほど近い「堺」の町は、良質の地下水が湧き出ていたからこそ、発展したものです。ですから、「太田茶臼山古墳」の「周濠」には地下水が湧き出ていると考えられるのです。
あいの病院の隣にあります。周囲は池になっていて入ることができないようです。池の外を囲むように柵があり、うっそうと草木が茂っています。
ものすごいオーラでした。171号線から少し入るだけであったなんて知らなかったです。
継体天皇陵とされていますが、太田茶臼山古墳とも呼ばれています。宮内庁管理なので立ち入ることはできません。
2021年3月14日(日)に行きました。敷地内に入る事は出来ませんので、外から見るだけになります。東側からは藍野病院前から見れますがフェンス越しになります。北側からは見る場所は有りません。墓地内から見れるようですが部外者は進入禁止です。西側(南西)からは太田3丁目の住宅道路から少しだけ見れます。南側からだと太田公民館前と、継体天皇 三嶋藍野陵拝礼所から見れます。一番のお勧めポイントは継体天皇 三嶋藍野陵拝礼所からです。格式が高い場所ですが一般の方も予約無しで入れます。
被葬者:第26代・継体天皇宮内庁により、第26代・継体天皇の三嶋藍野陵に治定されています。継体天皇は古墳時代を生きた方で、父は彦主人王、母は振媛です。拝:2020/11/08
整備されてて綺麗でした。でも継体天皇の本当の古墳は今城塚古墳みたいですので、両方行くのが良いと思います。継体天皇の古墳ではない説が有力ですので星は4つです。継体天皇ので無いなら、誰の古墳なんでしようね。ヤマト王朝に匹敵する勢力があったのでしょうか?
◆― 太田茶臼山古墳:第26代継体天皇の陵 ―◆墳丘長:226メートル後円部直径:138メートル高さ:19.2メートル前方部幅:147メートル高さ:19.8メートル周濠外側での発掘調査による出土埴輪から古墳時代中期の5世紀中葉頃の築造と推定。築造年代が合わないことから真の継体天皇陵は今城塚古墳とされる。墳丘部の縮尺が応神天皇陵の誉田御廟山古墳と同じであることから被葬者は応神天皇の関係者に推定される。
名前 |
太田茶臼山古墳(継体天皇陵) |
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ジャンル |
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住所 |
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HP | |
評価 |
3.7 |
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宮内庁が措定した携帯天皇陵ですが、考古学的には、お隣の今井塚古墳が事実上の継体天皇陵です。