龍安寺近くの隠れ参道。
一条天皇 圓融寺北陵の特徴
龍安寺の池の東側から続く参道を散策できます。
龍安寺の駐車場から直接参拝用通路へアクセス可能です。
背景に裏山の自然を感じながら訪れることができます。
第66代 一条天皇御陵京都 右京区 竜安寺内。
第66代一條天皇 圓融寺北陵第73代堀川天皇 後円教寺陵かなり登ります。
まだバスで出向く所です。
龍安寺の裏山にあります。少し入り口が分かりにくいのが難点ですが、さすが宮内庁、ちゃんと手入れされてます。
宇多天皇陵から山道をハイキングしながら廻ってきました。ここだけ行くなら龍安寺駐車場横の参道を登ってきた方が早いです。陵墓からは展望が開けていて京都の市街地が良く見えます。ここをさらに登ると円融天皇火葬塚があり、そこまでは綺麗な石畳ですが、そこから宇多天皇陵までは山道になりますので、ハイキング装備で。一条天皇は平安時代中期の第66代天皇円融天皇の第1皇子。母は藤原兼家の娘、詮子。兄弟姉妹はない。永観2年(984年)花山天皇の時、皇太子に立てられる。寛和2年(986年)花山天皇が内裏を抜け出して出家したため、数え年7歳で即位した。これは孫の早期即位を狙った兼家の陰謀と言われる(寛和の変)。皇太子には冷泉天皇の皇子居貞親王(三条天皇)を立て、摂政に藤原兼家が就任した(のちに関白)。兼家の死後は長男の道隆が引き続き外戚として関白を務め、一条天皇の皇后に娘の定子を入れ、中宮を号させるが、長徳元年(995年)に病没。代わりに弟の道兼が関白に就任するがわずか7日後に没し、道隆の子伊周との争いに勝利した道隆・道兼の弟道長が、姉で天皇の生母・詮子の推挙を受け、内覧となって実権を掌握した。道長は先に中宮を号していた定子を皇后宮と号し、娘の彰子も皇后に立てて中宮を号させる事で、一帝二后の先例を開いた。一条天皇の時代は道隆・道長兄弟のもとで藤原氏の権勢が最盛に達し、皇后定子に仕える清少納言、中宮彰子に仕える紫式部・和泉式部らによって平安女流文学が花開いた。
龍安寺の駐車場横から参拝用の通路がありますので、龍安寺の拝観料を払わずして参拝可能。標高高いところにあります。
名前 |
一条天皇 圓融寺北陵 |
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ジャンル |
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電話番号 |
075-601-1863 |
住所 |
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HP | |
評価 |
4.4 |
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龍安寺様の池の東側から参道が続いてます。綺麗に整備されており、1,000年前によくお作りになったとしみじみ思いました。途中に鹿と猪対策の扉があります。今は大木が成長して、景色を遮っており、隙間から西山と嵯峨野の景色が見え、双ヶ丘と天王山や男山、高槻市の街が見えます。愛する定子様は鳥辺野、彰子様は宇治市木幡、母の詮子様も宇治市木幡に遠く埋葬されているそうです。皆近くで埋葬されたら、いいのにと思いました。まあ、父の円融天皇火葬塚が奥にあるから寂しくないかも。