近衛基通公の墓所、歴史の息吹。
近衛基通公御廟の特徴
低木や雑草が覆う歴史的な場所で、散策時に注意が必要です。
近衛基通が関与した観音寺大檀越としての重要性が感じられます。
伽藍の復興に貢献した歴史を知ることができる貴重な史跡です。
道路脇に「近衛基通公御廟」とありますが、近くにはヤードの門だけです。御廟はヤードの門の前をすぐ右に壁づたいに進むとありますが、道も御廟周囲も荒れてますから気をつけて進みましょう。さて、御廟に刻まれた近衛基通は、藤原家から分かれた五摂家の一つ、近衛家の人物で普賢寺関白とも言われています。彼は源平時代に摂政・関白に任じられて政治を行い、この普賢寺の地で隠棲したそうですけど、藤原家の公卿はたくさんおり、近衛基通といわれても正直なところ何をした人か今一つピンときません…。なお、この石碑を作った陽明文庫は、元々第二次大戦時に総理大臣であった近衛文麿が、藤原家代々に伝わる資料を整理するために作った財団になります。御廟前の説明書によると元々は山の上にあったものを、ここに移転させたとありますので、ご先祖様のお墓を移転させたのでしょうね。
普賢寺関白ともいわれた近衛基通は、観音寺大檀越(だいだんおつ)として伽藍の復興に貢献した。平安末期〜鎌倉時代前期、平清盛、後白河天皇、後鳥羽天皇らにより摂政・関白に任じられて政治を行ったが、建仁2(1202)年に政界から退き、行理と号して仏門に入ると、普賢寺に移り住み、74歳でこの地で亡くなる。今も屋敷跡には墓所が残されている。基通と叔父・九条兼実の関係は良好なものではなく、兼実は基通の関白就任直後こそ「故殿(基実)の深恩を思う」として補佐をしていたが、やがて疎遠となった。兼実の日記『玉葉』には後白河院と基通の関係を「法皇艶摂政依其愛念」と記してその関係を疑い(寿永2年8月2日条)、兼実の同母弟・慈円は基通・家実父子を「無能な人物」であるとしている(『愚管抄』)。
このサイトは、悲しいことに、低木や雑草で覆われてしまった。しかし、このサイトを発見する良い機会でした。(原文)The site, sadly, has become overgrown with shrubs u0026 weeds. But it was a good opportunity to discover this site.
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿で後白河法皇随一の側近。摂関家の嫡流であり、平清盛の六女・完子を正室とし、従一位・摂政 関白・内大臣まで上り詰めた。建仁2(1202)年に政界から退き、行理と号して仏門に入るり普賢寺に移り住み、74歳でこの地で亡くなった。墓はその屋敷跡に残されている。
名前 |
近衛基通公御廟 |
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住所 |
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評価 |
3.7 |
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近衛家二代目、近衛基通公の墓所です。《解説看板》近衛基通墓京田辺市普賢寺打垣内50番地の4近衛基通は永暦元年(1160)に、藤原氏直系の近衛家始祖である基実の子として生まれた。継母が平清盛の娘であった関係から治承三年(1179)20歳で左近衛中将から内大臣関白となり、安徳天皇が即位すると摂政ともなり、従一位に進んだ。その後は源平争乱に巻き込まれ罷免就任を繰り返した。承元二年(1208)に に出家し、法名を行理といった。貞応元年(1222)頃、この普賢寺の地に移り住み、普賢寺殿あるいは普賢寺関白と称され、天福元年(1233)この地で亡くなった。近辺で火葬後は高野山に納骨するだけで、追善葬家はしないことが遺言であったという。字「御所の内」は基通の隠居地、白山神社は鎮守、現在多々羅極楽寺にある不動明王立像は、基通の持念仏と伝えるほか、その子とともに普賢寺(現在の観音寺)の伽藍再興に尽力したという。昭和六十二年(1987)、ここから100メートル南にあった、明治十五年(1882)に火葬伝承地を墓地として整備した地点の発掘調査が行われたが、火葬の痕跡はみつからなかった。京田辺市京田辺市文化財保護審議会。