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元弘の乱(1331年)の頃つくられた空堀です。大橋・天王橋・とともに、吉野三橋とよばれます。寛文五年(1665)に記された『吉野伽藍記』には、丈の橋は「長サ五間 広壱丈 但今ハ無シ」とあり、かつてここに木橋が存在していたとあります。吉野三橋は、元弘の乱で、大塔宮護良親王(後醍醐天皇の皇子)護良親王が吉野山を要塞化するにあたり造った大塔宮吉野城の堀切(空堀)に架かる橋でした。つまり、橋の下には水がなく、両側は谷になっています。大橋は七曲り坂を登りきった攻が辻のすぐ上手にある、朱塗りの欄干の橋。 天王橋は竹林院近くの小さな橋です。ちなみに、元弘の乱とは、鎌倉末期の我が国の内乱です。後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒そうとし一度敗れ、隠岐の島に流された後、潜伏していた護良親王が吉野で挙兵、前後して千早城では楠木正成が再挙兵し、赤坂城を奪回、わずかな手勢で90日間の籠城戦をおこない、得意のゲリラ戦で幕府の大軍を翻弄します。これで幕府の権威は地に堕ちはじめます。護良親王は敗れるものの、粘り強く各有名寺社に倒幕の令旨を発し続けます。当時の寺社は、宗教集団のみならず武装勢力でもありました。播磨では赤松則村も挙兵、これらの機を見た後醍醐天皇は名和長年に奉じられ隠岐の島を脱出、倒幕の綸旨(命令)を出します。これに呼応し御家人・足利尊氏や新田義貞が寝返り、鎌倉幕府に反旗。次々と京都の六波羅探題、九州の鎮西探題、そしてついに鎌倉の幕府本体を攻撃します。有名な鎌倉七口といわれる険しい切通(細い険しい山道)の防衛による鎌倉側の守りは固く戦死者を出しますが、新田義貞は海から鎌倉に突入を図り成功、稲村ケ崎を経て、北条氏は追い詰められ、菩提寺の東勝寺で残る一族283人が集団で切腹。いよいよ倒幕に成功します。倒幕~隠岐の島を脱出した後醍醐天皇が京都に帰還し建武の新政を始めることになるまでの一連の動乱を元弘の乱とよびます。その頃の中世の遺構です。