江戸幕府の馬の歴史、下総中野牧の跡地!
こちらは下総 中野牧の捕込跡です。地権者の方のご尽力で捕込を形成する大きな野馬土手が形良く残っています。徳川幕府は軍用馬の養育を主な目的として、広大な下総台地に小金牧と佐倉牧に大別される牧を要し、野馬という半野生馬の放牧を行っていました。江戸時代の現 鎌ヶ谷市周辺は、下総小金牧の中で最大の中野牧が置かれた場所です。毎年秋になると野馬の捕獲が行われ、最終的に野馬を生け捕りにした場所が 捕込です。当時は近隣の村からも大勢の人々が見物に集まる一大イベントだった模様です。同様な国指定史跡としての捕込は下総佐倉油田牧跡(香取市)がある他に、南三里塚五十石遺跡(成田市)、高野牧の捕込跡(富里市)、小間子牧野馬捕込跡(八街市) 等があります。
名前 |
下総小金中野牧跡 (捕込) |
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ジャンル |
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住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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評価 |
5.0 |
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江戸幕府の馬産は放し飼いでした。下総国にあった小金牧中野牧が鎌ケ谷市、船橋市、松戸市、白井市に跨る広大な放牧地で、柵ではなく、土手で囲っていたため野馬土手と呼ばれます。そして良い馬を選んで捕まえる場所がここだったのです。近代家畜生産の様に、良い父、良い母を選んで計画的に生産するのではなく自然に任せて半野生化していました。丈夫で逞しい馬が生き残っていたのは容易に想像できます。この場所から、大きな立派な馬を将軍様の所へ連れて行くのであれば、残った馬が小型化していくのではと思われます。オランダから種馬用にと贈られた大きな馬も、種馬として使われなかったようで、交配による改良という馬産の考えがなかったようです。明治に入り横浜根岸で行われた競馬では、中国産馬が圧倒的な強さを見せていたようですが、在来和種のタイフーン号が席巻したという記録があり、写真を見ると小柄な在来和種ので特徴が見られます。在来和種は放し飼いという半野生環境で独自の進化を遂げた世界的にも珍しい馬日本なっていたようです。軍馬改良推進とサラブレッド導入により在来和種は数が減っています。日本の武士たちを乗せて活躍していた馬たちに思いを馳せてこの馬事を見守りたいです。