自然に包まれた彌尼布理神社。
彌尼布理神社の特徴
自然豊かな林に囲まれ、落ち着ける空間を提供する神社です。
参道が素晴らしく、木々に囲まれた雰囲気が楽しめます。
306号線から左手に見える鳥居が目印となるアクセスの良い場所です。
最初の坂道は少しキツかったです結構歩いた気がしますが自然がいっぱいって感じで素敵な場所でした💕🫶歩いているとところどころからカサッって音がしますが安心してください✋😎トカゲが逃げていく音です🦎
彌尼布理神社(みにふりじんじゃ)御祭神は稲倉魂命(配祀)誉田別命、大年命、石凝姥命、木花佐久夜姫命、金山彦命、迦具土命、大山祇命、菅原道真、天之児屋根命延喜式神名帖に記載されている由緒ある神社伊勢國奄藝郡十三座の1つ平城天皇大同元年(西暦806年)創立という。当時は50年毎の再建があった。文治・建久のころ平賀朝雅社領寄進。康元元年見雲五郎が近江より来て当社に奉祀し、その後見振と称して代々禰宜となった。元亀3年には稲振大明神と称していた。江戸初期に稻降神一社、春日八幡一社、ひじりの宮一社の三社があり。文禄の検地によって供田没収されて以後は荒廃をつづけたが、正保2年(1645)に藩主藤堂高次の田地寄進によって社頭は修補された。明治12年(1879年)、社殿が造営された。その際、瑞垣内に、早生・中生・晩生・もちの四種の稲が自生したと伝わる。この自生した稲について、人々は神の瑞穂として大切にし、広く県内各地へも分配した、と記されている霊験記念碑が境内に立っている。山1つが神社で踏み入ると新鮮な気持ちになりました。帰宅して撮った写真を見返して気付きましたが、山の上ということもあり電気や水道等現代の文明を引き入れることなく神社が建てられた時と変わらない状態を続けていることに地元の氏子さん達の維持管理の苦労が伺えます。
三重県津市北黒田町 彌尼布理神社さんを、2024年11月08日(金曜日)に、初めて訪れました。グーグルマップさんを見て、訪れました。書き込みにありましたように、国道沿いに、自販機のところに、駐車スペースがありました。参道は300mくらいとのことでしたが✨、まあ高低差が十分にあり、適度な運動が出来ました🎵サーキットでスーパーフォーミュラーのフリー✨🆓✨走行をしている感じで、なかなかな、サウンドでした🍀道中に道に迷い込み、国道上の人通りがない道をさ迷いました😭
【彌尼布理(みねふり)神社】2024.5.3㈮無人で手入れもされていなく、本殿内には何も祀ってなかったです💦書き置きの御朱印もありませんでした❗鳥居から本堂まで300メートルほど坂を登るんですが途中何かパワースポット的な雰囲気はありました❗車は鳥居横の自販機前に何台か停められました。
道の駅河芸から東に見えるこんもりした林が黄緑色に染まっていたので、観光案内のおじいさんに聞くと、あれはシイノキで、いねふりさんという神社があると言う。雨の日だったが行ってみると、参道はよく整備されていて、神社までは少し山を登るがたやすく行ける。参道や境内の樹木が素晴らしい。「彌尼布理」と書いて「いねふり」と読むらしいが、れっきとした式内社だし、かなり歴史はあるようだ。境内の小さな石碑には「山神」とも書かれている。
彌尼布理神社(≧▽≦)
落ち着ける空間です。
前はたまに通ります。
前を通る道のポケットではたこ焼きのキッチンカーが出ていることがあります。
| 名前 |
彌尼布理神社 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| HP |
http://www.jinja-net.jp/jinjacho-mie/jsearch3mie.php?jinjya=2881 |
| 評価 |
3.9 |
| 住所 |
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弥尼布理神社(みねふりじんじゃ)。三重県安芸郡河芸町大字北黒田。式内社(小)、旧郷社。通称は「いねふりさん」。主祭神:倉稻魂命(配祀)誉田別命 大年命 石凝姥命 木花佐久夜姫命 金山彦命 迦具土命大山祇命 菅原道真 天之児屋根命資料によると、社頭案内には、大同元年(806年)六月に東海道観察使により創建されたとあります。創建以来五十年毎に造営・祭礼が行われ、その度に五穀豊穣し、住民は窮乏や悪疫から免れたと。通称「いねふりさん」であり、ご祭神は倉稲魂命。原始の「稲降り」が「彌尼布理」に転訛したものと思われます。文治・建久のころ平賀朝雅社領寄進。康元元年見雲五郎が近江より来て当社に奉祀し、その後見振と称して代々禰宜となった。元亀3には稲振大明神と称していた。江戸初期に稻降神一社、春日八幡一社、ひじりの宮一社の三社があり。文禄の検地によつて供田没収されて以後は荒廃をつづけたが、正保2年(1645)に藩主藤堂高次の田地寄進によつて社頭は修補された。明治12年(1879年)、社殿が造営された。その際、瑞垣内に、早生・中生・晩生・もちの四種の稲が自生したと伝わる。この自生した稲について、人々は神の瑞穂として大切にし、広く県内各地へも分配した、と記されている霊験記念碑が境内に立っている。とあります。参考として、東海道観察使については、桓武天皇の御代、国司の過剰な税徴収など地方政治が腐敗。それが原因で国司の前任者と後任者との間で紛争も起こっていました。そこで天皇は延暦十六年(797年)頃に「勘解由使」を設置。これは地方政治を監査・監督する令外官。そして政治一新を図る次代の平城天皇は、大同元年(806年)に「勘解由使」を廃止し、東山道を除く六道に「観察使」を設置しました。当社創建はこれに因むものと思われます。とあります。