ヤマトタケルの伝説、白鳥塚古墳。
白鳥塚古墳の特徴
日本武尊の墓として伝わり、歴史の深い古墳です。
加佐登神社の裏にあり、木々に囲まれ静かな雰囲気が魅力です。
古墳は帆立貝式で、面白い形状が観察できます。
加佐登神社の一の鳥居側から向かいました。資料館の横を通り、坂を登って行く。右手には神社への石段も見えるので、石段からも行けます。加佐登神社の境内横に出て、左に曲がるとやがて池が見えます。坂を下ると広場に出て、白鳥塚古墳の碑に着きました。そこからまた登り坂を上がり左に曲がり少し進んでようやく頂上に着きました。現在は日本武尊の墓ではないということのようですが、身近にこのような古墳があるというのはロマンがあります。平日だからか途中誰にも会わず、しかも曇っていたこともあり、少し不気味な感じもしました。帰りは、古墳の看板前の道を行くと加佐登神社の裏に着きました。未舗装で多少のアップダウンもありますのでスニーカーなどで歩くことをおすすめします。
明治12年、能褒野神社にある前方後円墳が日本武尊の陵だと認定されるまでは、ここが日本武尊陵だと言われており、国学者であり古事記研究の第一人者である本居宣長もそう認定していました。どうやら政治的な話で能褒野にある前方後円墳のほうが立派だということが、日本武尊陵が能褒野になった理由だそう。こちらの墳丘は貝殻式であるとされておりますが、加佐登神社の神主さんに話を聞いたところ、白鳥塚も前方後円墳だと話されていました。能褒野も見学しましたが、どちらが日本武尊の陵墓であるにせよ、東へ西へ日本統一に向けて旅立った日本武尊の偉業は、交通手段が徒歩か舟という時代では、正に命賭けの凄まじいものだったと思います。日本武尊が東征の帰りに力尽き亡くなったことで、彼を指揮していた武内宿禰はすまないことをしたと思い、日本武尊の子を天皇の位につけたと聞きます。後の仲哀天皇です。大君になれなかった日本武尊ですが、子は大君の位についたものの、中継ぎの哀れな天皇と言う名をつけた淡海三船の名付けセンスは、その意味を知ると日本武尊はちっとも報われていないなんて思いました。加佐登神社境内に位置する白鳥塚古墳、神主さんにお会いできたらその辺りの話も詳しく聞けると思います。古代史ファンにはおすすめの場所です。
日本武尊の墳墓として伝わる古墳。同様の古墳は亀山市の能褒野神社にもある。ここの帆立貝式古墳とされ、珍しい形をしている東征からの帰り道、日本武尊は疲れ果てて、脚が三重に曲がったとされ、三重郡で病気になり、鈴鹿のこの地で亡くなったとしても地理的に不自然さはない。この古墳を訪れ、記紀の世界に思いを馳せてほしい。
日本武尊の墓所と言われている古墳だそうです。多分違うと思いますが大和武尊の墓所なんてロマンがあって良いですね。長らく県下最大の円墳と思われていたのですが、発掘調査の結果、帆立貝式古墳だったことが判明しました。帆立貝式古墳は前方後円墳よりは格下の古墳だったと思いますが、この地域を支配した有力な首長の墓なのでしょう。発掘調査は行われたようですが、石室の調査は行われていないのでしょうか?それを行えばよりはっきりしたことが分かると思います。私が訪ねた時には植樹されたジュウガツザクラが可憐な花を咲かせていました。追記 4月8日の加佐登神社の例祭の日に訪ねました。このときはツツジが綺麗に咲いていました。
伊吹山でイノシシの神に敗れたヤマトタケルは能褒野の地で亡くなったが、その能褒野、ヤマトタケルのお墓と云われる古墳は何箇所かあるが国学者の平田篤胤や本居宣長はここ白鳥塚古墳が能褒野墓であると見ていた。明治時代に南西にある王塚古墳が能褒野墓であると宮内省に指定された。
亀山市にご陵墓が有り、個人的には亀山市の方がヤマトタケルのお墓と思われる⁉️
加佐登神社境内西南部の丘陵に位置しています。加佐登神社さんにお参り後、見学したかったのですが時間に余裕がなく断念しました。次の機会に行きます。
歴史を調べてから行くと楽しいです。
特に見るトコではなく、ひっそりとしたところ。まぁ大昔の方の墓ですからね。
| 名前 |
白鳥塚古墳 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 営業時間 |
[土日月火水木金] 24時間営業 |
| HP |
http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/bunkazai/da/daItemDetail?mngnum=730791&pageCur=3 |
| 評価 |
3.7 |
| 住所 |
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周辺のオススメ
加佐登神社と同じ場所にある、日本武尊の墓とも言われてきた、白鳥塚古墳。まぁ、実際には5世紀ごろに鈴鹿川領域を治めていた首長の誰かの墓らしい。高祖父高祖母、その前もこの辺りの村の出身である。考えようによっては遡って遡ってご先祖様の一人なのかもしれない。というわけでご挨拶だけしてきた。