北海道最古の古刹で法事を。
上国寺の特徴
上ノ国八幡宮の隣に位置する歴史深いブッダ・テンプルです。
本堂は国指定重要文化財で、1443年に開基された由緒ある寺院です。
住職は気さくで良い方で、家庭的な雰囲気が漂うお寺です。
住職が気さくな方でとても良い人です。その上奥様方親切に、きちんと教えてくださいます。これを聞いたらと思わず頼れます。だだ、お寺に行く時坂が急すぎて大変ですよ。
北海道最古級のお寺。半分地元ということもあって、葬儀・法事でお世話になるところというイメージ。観光名所として見たことはない。親類縁者が眠っている墓所であり、先の大戦の傷痕を思い知らされる場所でもある。
法事でした。
家庭的なお寺さんです。
北海道最古のお寺だそうです。
本堂 国指定重要文化財開基を1443(嘉吉3)年と伝える北海道有数の古刹。1560(永禄3)年頃には存在がはっきり。本堂の建立年代は、内陣天井の支輪に「宝暦八寅年(ほうれきはちとらどし)」の墨書があること、1929(昭和4)1929(年の修理時の板札に「…宝暦七年ニ本堂庫裏(くり)一度ニ建立」とあること、虹梁(こうりょう)の彫刻模様が18世紀に一般的に用いられているものであることから、1757(宝暦7)年か1758(宝暦8)年の建立であると考えられる📖桜が嫌いな蝦夷の民華徳山上国寺に、武蔵の国から来た松逕上人がおられるのを訪れると、ねんごろに迎えてもてなしてくれた。この寺の傍らに、たいそう大きな桜が咲いている。上人の言うには『この花が咲き始めると、もうにしんという魚が群れて来なくなるといって、人々は嘆く。だからこの桜の花が早く咲かないことを人はみな願い、咲いたころには浦の人たちはうらみののしって、いっこうに花見をする人もいない』と笑顔で語った。この寺の門を出ると神社がある。『何の神をまつるのですか』とたずねると、『にしん神です』と答えた。『どのような神をあがめてそういうのですか』と、さらに問うと由来を教えてくれた。百年の昔、大蔵法印秀海というたいそうな修験者が磯べに庵をむすんで、尊く修業をしておられた。ところがある年、特にニシンの群がまったく来ず、ひどい不漁に浦々の人すべてが嘆いているのを法印が聞いて「お前たちが切に願う心が本物であるなら、私は神に実情を訴え祈って、ニシンが獲れるようにしてやろう」と言った。浦の人たちはこのことを聞いて『何を言うんですか。今は五月の半ばも過ぎたのです。ニシンの漁期であってこそ、来ることもありましょう。ですが50日あまりも日数が遅れては、いかにお祈りの法力がすぐれてあろうとも、その効があるとは思われません』と言う。法印は微笑んで、『群来る時季にあってきたニシンならば、祈祷したせいだとはいわれない。時ならぬときに祈ってこそ、まさしく神の効源というべきだ。私のはいいかげんな祈願ではない。私の露のような命がここに消えてしまおうとも、大勢の人々を哀れと見給えと神に誓って祈ろう。あなた方も心をひとつにして、さあ天に祈ってくだされ。もし、私が祈り得たならば、浦々の漁師たちのもとから、漁で得たニシンいくつかをわたしに与えて欲しい。それをもとでにして、寺の修理をしよう』と言った。浦々の人たちはそれを聞いて『たいそうおやすいご用です。どのようにおっしゃろうとも、そのとおりいたしましょう』と約束をした。しかし世間には、つむじまがりの男がいるもので、その者がいうことには『今はいつだと思うんだ皆。五月の末だぞ。ニシンが群来るころから60日あまりもすぎてしまってから、どうして腐れニシンひとつさえ来ることがあるのか。なまぐさ山伏の空祈りに、私は少しの期待ももてない。こんな祈りが何になろうか。かたはら痛い験者殿だ』と大口を開けて大いにあざけり笑った。人々は『そんなことを言うな。天の恵み、神の力ははかり知れるものでない。今年ニシンが群来てくれなければ、我々は何を食べて命をつなぐんだ。親や妻子の嘆きをどうするのか。あんたも我々と一緒に祈りなさい』と諌めたが、どうにも従わず、この人は憎々しいことばかり言って人の悪(アラ)となった。法印は、まず心身を清め慎んでから注連を七重に引きまわし、五つ品の幣をたてて、数珠の音もたかく鈴の音も尊く、食を絶って夜昼となく祈った。それから数日、まだ7日に満たないうちに「しかべ(アホウドリ)」という鳥が沖に集まり、鴎は海いっぱいに群がり、鯨は大波をおこして汐を吹きあげ餌をあさった。これは全てニシンの群が来た証拠だった。こうして海の上は白みわたり、浦という浦にニシンが群がって来ないところはなく、例年よりも多くのニシンを網あげすることができた『ああ、ありがたい祈りだ。大蔵法印はそもそも神であろうか仏であろうか。このような尊い験をみせてくださったとは』と大勢の人が集まり歓びあう声は、潮の湧くように鳴りひびいて聞こえた。あの心のねじれた人も、ニシンをたくさんとったが、お礼としてわずかのニシンも法印におくらなかったので人々はそれを見て呆れたり、そしったりした『どうしてお礼を早く差上げないのか。御祈りのおそろしいほどの効験をみたのにどうしてものを贈らないですまされようか。早くしなさい』と涙をながしてひたすらすすめるのに、かの意地の悪い人は『この年は季節が遅れて海がまだその漁期に当たっていたので、自然とニシンが群来たまでで、それをなまぐさ山伏のなま祈りの効験と思ったらとんでもないことだ。だから私はこのお礼をするいわれは露ばかりもないのだ』と言った。法印が彼の自分勝手な言い分を聞くやいなや言い争いとなったが、 しかし、意地の悪い人は少しも言いやまなかった。浦人たちはどうかして法印のもとへニシンを早く贈ってあげるように、いろいろとりなしたが、ようやく何匹かの魚をおくらせたので、法印の心もすこしは和やかになった。ところが、意地の悪い人はあくまでも『あいつのようなろくでなしはその数さえかぞえられるか疑わしい』などとごねるので、法印に数えさせようと、あれこれという『それ思ったとおり。ろくに数もわからないのだ』と言い出して、ふたたびいさかいが起こり、この法印を腹黒いものとするためにたいそう質の悪いニシンをひろい集めて、3つ4つ数のたらないままで束にして贈ったのでこれがまたいさかいの種となった。法印はますます立腹し、前にして大きな争いとなったのを人々が止めようとしても聞きいれず、ついにはおふこ(天秤棒)をふりあげて、激しく争ううちに打ちどころが悪かったのであろう、老法師は息苦しくなって倒れふしたまま亡くなった。人々は騒いで介抱したが、どうすることもできなかった。それから3日4日あって、この心のねじれた人も突然病気になって死んだ。そしてその後幾日もなく、その妻子たちもみな次つぎに死に絶えた。そのような怨みの報いを目の前にみた人々は、身の毛もよだつ恐ろしさに法印の御霊を若宮として祀って、これを「にしん神」と申すのである。また、心がねじれた人の亡き霊が生前おかした罪を償ってささげるのだろうか。秀海の庵のあった跡に、いつも正月のころには必ずニシンを2、3匹波でうちあげる。これを「大蔵ニシン」といって、領主に奉っていたが、ここ10年来そのニシンも波が寄せないためかあがらず、群来てくるニシンもよってくることがなくなった。
名前 |
上国寺 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
0139-55-2665 |
住所 |
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HP |
http://www.town.kaminokuni.lg.jp/hotnews/detail/00000387.html |
評価 |
4.4 |
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上ノ国八幡宮の隣にあるブッダ・テンプルです。よいアトモスフィアを感じ取れます。