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明治33年(1900年)に開校し、令和2年(2020年)3月末で閉校した小学校です。史料によりますと、校舎は昭和53年(1978年)築、鉄筋コンクリート造り3階建てで、約2千196平方メートル広さがあり(体育館は別棟591平方メートル)、また、美唄市の緊急避難所に指定されているとのこと。ただし避難所指定につきましては、学校が閉校したため、情報が古いかも知れません。峰延小学校は、明治33年に『峰延簡易教育所』として9月に開校し、当初、仮校舎に集まった生徒数は、13名だったと伝えられます。6年後、尋常小学校に昇格し(生徒数63名)、さらに3年後には校舎を建て直し、現在地に移転。この頃から生徒数が大幅に増え(生徒数190名)、大正8年(1919年)、校舎が増築されています。昭和に入って間もなく高等小学校に昇格し(生徒数243名)、戦争が始まった昭和16年(1941年)、峰延国民学校へと改称するころには、生徒数は313名に増えていました。戦後の昭和22年、学制改革により『峰延小学校』に改称、同時に中学校が併置されています(5年後に解消)。昭和35年(1960年)、増築を重ねた校舎に体育館が追加されたころ、最盛期を迎え、生徒数は490名を数えました。しかし10年後の昭和45年(1970年)には、早くも331名に減少。以後も生徒数は減り続け、創立80周年を迎えた昭和55年(1980年)には250名まで縮小してしまいます。余談ですが、峰延小学校創立80周年記念式典は、当時、盛大に開催された模様ながら、なぜか、峰延小学校創立80周年記念碑は、学校内にはありません。どういうわけか、校舎敷地内ではなく、約500メートルほど、坂道を国道側に下ったところにある、防火水槽の横に鎮座していました。なぜ、こんな場所にワープしたのでしょう??それはともかく、平成に入ると、生徒数はますます少なくなっていきました。平成2年(1990年)は、まだ121名いましたが、平成22年(2010年)には65名とほぼ半減。令和2年(2020年)、生徒数は19名となってしまい、ついに120年の歴史に幕が下ろされたそうです。2024年10月末の訪問時、校舎は再利用され、『㈱北海道美唄生薬総合研究所』という会社が使用中でした。しかし閉校して、まだ3年しか経っていないことから、学校の施設が良く遺されており、また管理されていて、現役の学校と言われても遜色なかったです。なお外観の見学には、特に制限が無い模様ですが、くれぐれも企業活動のご迷惑にならないよう、ご注意ください。