延喜式内社の厳かな空間。
治田神社 上の宮の特徴
延喜式内社で歴史的な深みを持つ神社です。
北東約1㎞に下社もあり、地域の魅力を感じられます。
篠山と治田山に囲まれた厳かな雰囲気の場所です。
創建年代は不明ですが、伝承のひとつでは、平安時代の初期、四宮庄の豪族四宮氏によって、現在地の北にそびえる篠山の支脈治田山に創建されたということです。四宮庄は、現在の篠ノ井塩崎から千曲市桑原におよぶ地帯だったようです。四宮庄が史料に現れるのは、平安末期から鎌倉初期にかけてのこと(『吾妻鏡』)で、仁和寺荘園あるいは武水分神社神官家の所領であったと見られます。神話物語のなかでは、彦坐命(ヒコイマスノミコト)の子孫熊田氏が治田連(むらじ)の姓を王権から賜り、この地を開拓し、治田山に祖霊の彦坐命を祀ったとされています。想定されている時期は、古墳時代ではないでしょうか。治田神社は、1400年(応永7年)の大塔合戦の災禍により焼失しました。1435年の永享の乱の後、在地の豪族桑原幸光によって再興され、治田山上から現在地に社殿が遷座されたと伝えられています。治田山とは、篠山頂部から南に延びる尾根だと見られます。
この地を治めていた桑原氏が、諏訪神社の五月会や花会の頭役を勤めていた歴史と、川中島の合戦の前後の歴史を知ることができた。
杵築であるところがよい。
厳かな場所です。
名前 |
治田神社 上の宮 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.8 |
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延喜式内社治田神社(はるたじんじゃ)「上社」善光寺街道沿いの千曲市桑原にあり、北東約1㎞離れた同市稲荷山に下の宮「下社」がある。【御祭神】彦坐命(ひこいますのみこと):第九代開化天皇の第二皇子建御名方命(たけみなかたのみこと):諏訪大社の祭神八坂刀売命(やさかとめのみこと):建御名方命の妃、諏訪大社の祭神品保食命(うけもちのみこと):食物を司る、農業の神【由縁縁起】以下、案内板💁♀️より一、治田山(篠山)に創建される治田神社古記録によると、今から千数百年前、彦笠命の子孫熊田氏は、功労により治田達の姓を賜り、近江国から移住し先住民と共にこの地を開拓し、治田山(篠山)に祖神、彦生命を祀りこの地を管治した。二、延長五年(九二七)延喜式内治田神社となる開拓の御神徳と氏子住民の努力と成果が国に認められ、延喜式神社名帳に撰上され官社に過せられる。三、治田山(篠山)から現在地に選座される中世の永字の乱(一四三八)以降、この地に奉遷されたのは、諏訪上社の祭り五月会を勤めた地士来原幸光の奉仕による。また、建御名方命を勧請し合祀された。四、天明二年(一七八二)本来の式内社治田神社に戻る建御名方命の合祀以後、諏訪大明神と呼ばれた社名の変更をするため、寺社奉行に願いを出し、京都の吉田家の認可を受け式内社治田神社に復した。五、明治六年(一八七三)式内社郷社治田神社となる長野県の一選抜で村社から郷社に昇格する。当時は近郷の、一の宮と称され人々から厚く信仰された。六、昭和二十八年(一九五三)宗教法人「治田神社」となる二十六年制定の宗教法人法により、宗教法人「治田神社」として新しく設立された。そこには、本社は「彦生命外参柱を奉斎する」と規定されている。七、現在の社殿は昭和四十六年十一月、火災により社殿を焼失した。治田神社再建委員会発足後、同四十九年四月に氏子の浄財により再建された。平成二十四年四月十七日氏子総代、桑原振興会【構造物】拝殿・本殿鳥居手水舎社務所摂社末社:杵築大社、諏訪宮ほか。