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名前 |
亀川盛武生家跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
2.0 |
琉球処分期の三司官で、 処分反対の指導者であった亀川盛武の生家跡。亀川家は、毛氏豊見城殿内の分家で、与那城間切の総地頭家である。1871年維新慶賀使が上京。尚泰を琉球藩王とする旨の命を受けて帰国したが、それが琉球処分への布石となったことから、 亀川らは慶賀使の伊江王子朝直、宜湾親方朝保らを激しく糾弾、三司官の宜湾を辞任に追い込んだ。1875年、明治政府の処分官松田道之が来島。処分へ向けた諸策が次々に打ち出される中、亀川は、反日派《頑固党〉のリーダ一として、士族層の抵抗運動を指導した。処分の後も脱清(脱琉渡清)派を支援、旧士族層の県政への非協力を画策するなど、抵抗の姿勢を崩さなかった。琉球王朝の崩壊という抗しがたい現実に、それでもなお抵抗せんとした亀川は、時代を象徴する人物の一人だったといえる。-案内板より-