板垣駿河守信方屋敷跡の特徴
名前 |
板垣駿河守信方屋敷跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.0 |
甲斐守護武田家、信虎・晴信(信玄)の2代に仕えた重臣で武田二十四将の一人に数えられる。甲斐源氏の出で、甲斐武田とは同族となる。武田信虎の時より、武勇ある宿老とされる。1521年駿府今川勢が富士川より甲斐に侵攻、甲府まで迫った。信虎は居館躑躅ヶ崎館より要害山に避難、ここで信虎嫡子・勝千代(後の晴信・信玄)が誕生、武田家の志気が上がり今川勢を反撃し追いやった。この時板垣信方は大いに功績があり、信虎より嫡子・勝千代の傅役を任される。その後、武田・今川の抗争は和睦となり、その時信方は大いに奔走し、以降駿府今川家との交渉役を務める。やがて国主・武田信虎の諸行の悪さが浮き出てきて、家臣を自分の勧請に任せて切り伏せるなど、家臣団にも悪評が広まる。更に信虎による嫡男・勝千代と扇谷上杉氏の娘の政略結婚を信方が猛反発。これにより宿老・板垣信方との関係も悪化。おりも折、和睦を破棄して駿府今川氏は相模北条氏と手を結び甲斐に侵攻、何とか撃退はできたが、それまで今川との交渉役を務めていた信方が信虎に叱責された。信虎はそれ以降、各方面に侵攻を繰り返し甲斐国は疲弊し、これを讒言する家臣を追放するなど暴君姓が進み、家臣・民衆の心が離れていく。1541年、更に信虎に嫡男・晴信を蔑ろにし、次男信繁に家督を継がせようとする動きが有り、この事を重く捉え危惧した信方含む重臣は、用意周到に計画を練り、晴信を擁立しクーデターを起こし成功、信虎を駿府に追放した。この信虎追放劇・クーデターも主要人物・板垣信方は武田家当主となった晴信から一層信頼され、同じ側近であった甘利虎泰とともに武田家の双璧とされた。それ以降、信方は各方面で優れた軍略し領土も拡大して、晴信の台になり順風であった。しかし、その油断からか1548年、軍議もまとまらないうち、村上義清攻略に出陣、上田原の戦いにおいて、有利と思われたところ逆襲にあい、板垣信方は戦死する。又、同じく重臣・信方と双璧とされた甘利虎泰も討ち取られる。