鳥羽の歴史感じる本丸跡。
鳥羽城本丸跡の特徴
鳥羽市の城下町と港の歴史を感じる散歩に最適な場所です。
九鬼嘉隆公築城の本丸跡からは素晴らしい景色が楽しめます。
TOBAのモニュメントが出迎え、観光地としての存在感を示しています。
鳥羽駅から徒歩で10分ほどの場所にある城趾。九鬼嘉隆が1594年(文禄3年)に築城し、その後は九鬼水軍の本拠地となっていました。大手門が海側に突出して造られるという全国でも珍しい形をしており、この大手波戸水門が出入り口となっていました。今も近くの海や川から運び込んだ石で詰まれた石垣の一部が相橋と本丸跡などに残っています。
夕方以降に行きましたが途中から真っ暗でした。それはそれでスリルがありました。体力はいります。
本丸跡まで歩くのは、そんなにキツく無かったです。アプリでAR楽しめますが、私はうまく出来ませんでした。でも雰囲気は楽しめました。海が見えるのはイイですね。今度はゆっくりと来たいです。
鳥羽水族館の向かえになります。織田信長の家臣九鬼嘉隆が築城した鳥羽城。彼は信長の死後、豊臣秀吉に仕えました。この城は、秀吉に仕えていた頃に築城されました。駐車場は、市役所に停めさせていただきました。
みはらし最高!!フェリーの待ち時間に立ち寄りました。素晴らしい石垣、鳥羽ARも楽しい。
本丸は訪れたのが夕方というのもあり、人がいなくて寂しい感じ、下の廃墟のような旧鳥羽小学校も寂しさをより増大させます。しかし、眺めはよく、鳥羽港を行き来する船がたくさん見れます。
心地よい潮のかおりと見晴らしの良さは格別です。地元にあったら確実にお気に入りの散歩コースなっていると思います。 あと旧鳥羽小学校の校舎がとてもいい雰囲気で一番の見どころかもしれません。
伊勢神宮に、お参りしたついでに鳥羽城跡に行ってきました。標高40mの小山なので、簡単に登ることができました。城跡には、石垣や井戸跡などがあり当時の武将の想いを少しだけ共有できたような気がして嬉しかったです。
朝日を受けながらの散歩にちょうど良い。野面積みの石垣も良し。
| 名前 |
鳥羽城本丸跡 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 電話番号 |
0599-25-1157 |
| 営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
3.8 |
| 住所 |
|
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ここまで来て、向かいの鳥羽水族館に寄らずに城だけ見て帰る変人はワタシぐらいだと思いますが(笑)、それぐらい興味深い城なのです。なんと言っても海賊でありながら志摩国一国の領主でもあった九鬼氏の本拠地ですから。九鬼水軍は瀬戸内海の覇者「村上水軍」と並び称せられる強力な海賊集団でした。九鬼水軍は、港の外はすぐ外洋で波の荒い熊野灘なので、凌波性の高い大型の安宅船による操艦と戦術を得意としていました。いわば巨大な戦艦を中心とした運用です。もう一方の雄、村上水軍は波が穏やかな瀬戸内海が主戦場なので、自然と小型で機動性に優れた関船(せきぶね)や小早(こはや)が主兵装になったという違いがあります。こちらは足の早い巡洋艦や駆逐艦を中心とした運用ですね。これらの運用思想が全く異なる二つの海軍が最初に真正面からぶつかったのが、織田信長による本願寺包囲に伴う第一次木津川口の戦いです。当時、九鬼氏は織田傘下で水軍部門を担当しており、本願寺への武器弾薬・食料の搬入阻止のため大阪湾を海上封鎖していました。数万人が籠城している本願寺は、これに悲鳴をあげ同盟している毛利氏に物資を搬入するよう要請します。そうは言っても最強の九鬼水軍を排除して、制海権を確保しない限り不可能なワケで・・。毛利氏と協力関係にある村上水軍は、九鬼水軍の弱点を研究し十分な対策をしてから、突破に臨みます。それは大型で動きの鈍い安宅船をスピードで翻弄し、ほうろく玉と呼ばれる焼夷弾を至近距離から投げ込んで焼き払う作戦でした。この作戦が功を奏して戦場は燃えあがって漂う安宅船で溢れ、村上水軍は快心の勝利をおさめます。そして本来の目的である物資の搬入にも成功しました。九鬼水軍によるリベンジマッチの機会は、早くもその2年後にやってきました。再開された海上封鎖により窮地に陥った本願寺が、再びの補給を求めてきたのです。しかし今度は九鬼水軍も無策ではありません。あの超兵器を戦場に投入します。そう、信長の「鉄甲船」です。鉄板を貼って、ほうろく玉さえ防げれば、もともと防御力の高い安宅船には鉄砲も弓矢も通じません。搭載量の大きさを生かして大砲を3門搭載し、敵艦が近づく前に撃破する事で対処する事にしました。この鳥羽周辺で建艦された巨大な鉄甲船6隻は、大阪湾へと回航されて復讐の時が来るのを待ちます。そして、ついに天正6年11月6日、大阪沖に補給船団も含む毛利・村上水軍600隻の大艦隊が姿をあらわしたのでした。第二次木津川口の戦いの開始です。前回と同様に毛利・村上水軍は突破を試みますが、鉄甲船はほうろく玉による攻撃に耐え、大砲と鉄砲による斉射を次々と浴びせて、圧倒的な火力で敵艦を蹂躙していきます。結局、毛利・村上水軍は大損害を出して、突破を諦めて撤退していきました。この鉄甲船の建造を信長に進言したのは鳥羽城主、九鬼嘉隆と言うから功績は大です。その嘉隆が築城した鳥羽城ですが、同じ海賊衆による襲撃を想定して、大手門を陸ではなく海側に設けるなど特徴の多い城でした。(写真参照)後に小学校の敷地となって、本丸は校庭として整地されてしまったので、遺構はあまり残っていませんが、跡地に立って海を眺め雄大な気分を味わうだけで十分でしょう。