城跡散策で歴史を感じる。
佐沼城跡の特徴
佐沼城跡は、春に桜が美しい名所として知られています。
登米市歴史博物館と組み合わせて訪れると、さらなる歴史の謎を楽しめます。
神社や郷土資料館が近く、散歩にも最適な城跡の雰囲気を味わえます。
2026.1.10の訪問。佐沼城跡(佐沼要害跡)は佐沼川の右岸に位置していて鹿ヶ城公園として整備されていますが、土塁や堀などの遺構が残されています。平安時代末期の文治年間(1185-1190)に築城されたと伝えられてます。照井氏-葛西氏-大崎氏-津田氏-亘理氏と城主の変遷がありましたが明治4年(1871)に廃されるまで680年続いた城です。近隣には登米市歴史博物館や駐車場などあります。
お堀がありました。
佐沼城はかつての本丸部分だけが残っており、鹿ケ城公園として整備されている。駐車場もすぐ近くにあり、見学しやすい。かつての佐沼城は迫川に面しており、それ以外の部分は三重の堀で守られていたようだ。現在はかろうじて本丸を囲む堀は残っているが、コンクリートで固められているため堀らしさは薄い。本丸内部は土塁で囲われており、現在神社が建っている部分は櫓台であったと思われる。佐沼城は南北朝時代葛西氏の城であった。戦国時代に大崎氏が奪取し、大崎氏家臣が城主となった。大崎氏は秀吉の小田原征伐に参陣しなかったため改易となった。しかし、大崎氏・葛西氏旧臣は納得せず二度の反乱を起こし佐沼城はその舞台となっている。その結果、この地域には伊達政宗が進駐し、伊達領となる。江戸時代にも佐沼城は佐沼要害という形で存続し、明治維新まで存続した。
滑り台やシーソーなど遊具が淋しく置いてありました。眺めは良いです。
某PCゲームデフォ城を巡る旅 221026寺池館からそれ程離れて無いぞ 連携してたのか現在は公園に整備されてるが 訪れる人は少なさそう一段高くなってる位で遺構は???
お堀があります、城跡には公園がありますが草がぼーぼーでした、せっかくの歴史跡なのでもう少し整理されててもいいのかなと思いました。
2022年8月12日に見学しました。ここに城を築いたのは、藤原秀衡の家臣であった照井太郎高直だと言われています。文治元年1185年の築城の際、城の鎮護のために大きな鹿を生き埋めにしたと伝えられ、一名「鹿ケ城」と呼ばれました。源頼朝により、奥州藤原氏が滅ぼされ、城主は、葛西氏、大崎氏と入れ替わりました。豊臣秀吉の小田原参陣命令を大崎氏、葛西氏共に従わなかったため、領地没収となります。そこに知行を得たのは、木村吉清・清久父子でした。元々、木村家は、小身だったため、領内統治が進まず、葛西・大崎一揆を招きます。この一揆を収拾するように命を下されたのは、伊達政宗でした。佐沼城に逃げ込み、籠城していた木村父子を救い出しましたが、伊達政宗は、陰で一揆を扇動したのではないかと疑われてしまいます。この一揆が切っ掛けとなり、伊達政宗は、米沢から減封されて岩出山に本拠地を移されました。佐沼城を任されたのは、政宗家臣の湯目民部景康です。佐沼城主となった湯目民部景康は、津田に姓を改めました。慶長20年に一国一城令が出され、佐沼城は、佐沼要害となります。宝暦6年1756年に亘理倫篤が5千石で入ります。幕末まで亘理氏が治め、明治4年に廃藩置県となり、廃城となりました。迫川と荒川の合流地点に位置し、内堀や土塁も各所に残されています。
徳川家康様の物語で必ず出て来る白鹿ヶ城、本家筋の新田氏もいたため唯一、本妻と宿泊されたお城です。鎌倉幕府を作った頼朝公の蝦貫征伐の本拠地でもあり又菅原道真公の奥様を一時かくまっていた城です。
やや説明不足。もう良いのでは少し、整備されても良いかな、と思いました。
| 名前 |
佐沼城跡 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 電話番号 |
0220-21-5411 |
| 評価 |
3.4 |
| 住所 |
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堀跡がある。本丸跡は何も無く草が繁っていました。歴史資料館が有り佐沼の歴史がわかりますがもっとしりたいです。