筒井城跡で感じる戦国の息吹。
筒井城跡の特徴
筒井城跡は戦国時代に筒井順慶が拠点にした場所です。
毎年9月には順慶まつりが開催され、地域の活気を感じられます。
近鉄筒井駅から徒歩5分とアクセスが非常に良い立地です。
城址自体はフェンスで囲われて立ち入り出来ない空き地になっており、少し解説板がありました。住宅地の中にあり、城址の駐車場はありません。昔からの奈良の伝統的な集落を彷彿させる街並みが周囲に残っています。駅から徒歩圏ですが、こちらだけの訪問はもったいない気がしました。
前から来てみたかった筒井城跡大和の国からの我と筒井順慶はちょっとかすっているのかなぁ反対側の筒井順慶城跡お墓かなぁ分からなかったです入れないのかな?
もちろん建物など何も無いし、宅地化が進んでますが、主郭部の土の盛り上がりや、堀の跡なんかはまだ水路として残っていて、近鉄の筒井駅から歩いて5分の好立地の割には、よく形を留めているほうだと思います。低湿地帯だということで、沼城としての機能もあったのだろうと蓮根畑をみてそう思いました!色々と想像が掻き立てられる場所。
毎年9月開催の順慶まつりの会場です。写真は2024年9月7日の様子です。普段は何もない芝生が広がる緑地ですが、この日は戦国武将の仮装や火縄銃射撃、和太鼓演奏や水遊びなどのイベント満載の賑わいいっぱいの一日でした。残暑厳しい快晴の炎天下の中、沢山のお客さんが詰めかけておられました。私もスポーツ飲料とかき氷を片手に、楽しい時間を過ごしました。ちなみにここは、確かにかつて大和郡山市の領主でこの筒井町を統治した、かの筒井順慶氏の居城の遺跡ですが、現在は前述の通り、イベント時以外は何もない場所です。今後郡山市による公園整備なども踏まえ、筒井の新たな観光名所としての可能性もありえます。さらなる展開に注目しています。
大和の戦国大名筒井氏の城跡に来た。城跡といっても、僅かな土塁と堀が幾分確認できる程度である。歴史好き・城好きでなければ、決して来たいと思わない城跡であろう。私は、筒井順慶に興味を覚え訪れた。この城跡の環境は、まず駐車場はない。車は本丸跡にある菅田比賣[すがたひめ]神社の境内の隅に停めさせて頂いた。道路は城下の昔の道のようで、狭くて軽自動車でないと通行が厳しい。しかし、道は趣があって感じが好い。私はこの趣のある道を散策しながら、筒井城の説明板や内堀跡、畑の畦道の先にある(昔は城の虎口にあたる場所にある)城址碑、北側の外堀跡、光専寺など巡った。さて、筒井城を巡っては15世紀後半ごろより何度も戦が行われたが、筒井氏第八代順慶の時代には、松永久秀との度重なる攻防がある。まず永禄8(1565)年には松永久秀が急襲し順慶は筒井城を追われたが、翌永禄9(1566)年には奪還した。しかし、永禄11(1568)年9月信長が上洛すると久秀は真っ先に信長と誼を通じ、信長の援軍2万を得て再び筒井城を攻略した。ところが、元亀2(1571)年頃より久秀は反信長包囲網の厳しい情勢を鑑み、信長を離れ反旗を翻すようになった。順慶はその隙をついて、辰市城の戦いで久秀を打ち破り、筒井城も再び奪還した。この時、順慶は松永衆の首240を信長に送り、信長への恭順を示した。久秀は、元亀4(1573)年春信玄が上洛(?)途上に病にかかり駒場で没すると、天正元(1573)年暮れにはコロリと信長に観念し、多聞山城を信長に差し出し、許しを得て信貴山城へ退いた。その後、多聞山城には明智光秀が入り、そのとりなしで順慶と久秀は和睦した。天正4(1576)年信長の第2回石山攻めで大和守護である塙[はなわ、又は、ばん]直政(原田直政)が討死すると、順慶が信長より大和守護に任じられ、大和支配を狙っていた久秀は激怒したし、信長に不信を持った。天正5(1577)年、越後の上杉謙信が手取川の戦いで柴田勝家ら信長軍を破ると、再び(三度という説もある)久秀は石山攻めの天王寺砦から兵を引き揚げ、信長に反旗を翻し、信貴山城に籠った。結果は周知の通り天下の名器「平蜘蛛の釜」と共に爆死した。天正9(1581)年信長により一国一城の制度が取られ、順慶は筒井城を出て郡山城へ移った。この時筒井城は取り壊わされ廃城となった。蛇足である。「日和見順慶」とか「洞ヶ峠を決め込む」とか云われるが、順慶は山崎の合戦の際、洞ヶ峠には行っていない。洞ヶ峠にいたのは明智光秀で、光秀は順慶が今までの光秀の恩情に報いて味方してくれると信じ、順慶を洞ヶ峠で待っていたのである。しかし、結果は周知の通りである。《2024.8.26訪問》
元は広い縄張りだったが、住宅街に変わってしまい、畑か民家跡地をフェンスで囲って筒井城跡の説明板だけある。建物や土塁等、見るべきものは無い。近くにため池はあるが、堀跡の表記は無かった。住宅街だけあり道が細く、フェンスに沿って停車して写真を撮っていたら、運悪く5分もせずに住民の方が車で帰宅し、自宅に入りづらかったらしくクラクションを鳴らされてしまった。フェンスで囲っている場所がただの空き地の様に見えたのだが、数分くらい駐車できるスペースを確保してもらえると今後の来城者に喜ばれると思う。ただ近隣の方の駐車場にされる可能性は否定できないが。
戦国時代、筒井順慶が拠点としていた城。後に織田信長の命によって郡山に拠点を移し、こちらほ廃城となったようです。現在は住宅が立ち並び、平城だった事もあり、堀跡ぐらいが当時の面影を残すぐらいです。周囲は道は狭く駐車場等もないので、車でお越しの際はご注意を。
本丸跡地が残されています。立派な案内板もあり、筒井順慶顕彰会の掲示板もあります。この辺りに点在している環濠集落をイメージするような惣構えのお城だったんだろうなと。
北側の外堀址が味があって宜しい。筒井集落全体を囲む外堀とその内側にある内堀から構成されており、内堀で囲まれた部分が「シロ畠」と言われ、周囲と比べて一段と高くなった畠地となっている。この部分がちょうど筒井城の中心的な場所であったと思われている。西側では幅12m以上、深さ2m以上の堀が検出されている。筒井集落の北側、南東側には現在でも外堀跡があり、また菅田比売神社の東側には幅約2mの内堀跡の遺構が良好に残っている。また菅田比売神社の境内の南側には、若干高くなった部分があり土塁跡が指摘されている。この菅田比売神社は筒井城があった頃から、位置を違えず鎮座していると考えられている。
| 名前 |
筒井城跡 |
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| ジャンル |
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| 評価 |
3.3 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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信長、秀吉の世で大和国を治めた筒井順慶の居城後です。この地が奈良の東西南北の道が合流していて重要な拠点だったそうです。周囲は住宅街で開けた場所が現れるので驚きです。