岸静江国治を知る静謐な空間。
岸静江国治の墓の特徴
岸静江国治の墓がある多田地区の交通アクセスが良好です。
幕末の志士をしのぶことができる落ち着いたスポットです。
忠義に殉じた偉いお侍さんの遺志を感じる場所です。
岸静江国治は浜田藩士で、扇原関門の関守を拝命していました。慶応2年(1866年)6月16日、大村益次郎(村田蔵六)率いる長州軍約1500人が扇原関門に迫り開門を要求してきました。関門の防備は、岸静江国治以下、わずかな士卒と急募の農民兵16人のみでした。圧倒的な人数の差にとても防ぎきれないと判断した国治は、士卒と農民兵を逃し、たった一人で長州軍の関門通過を断固拒否し槍を構えた仁王立ちの姿で銃弾を浴び絶命しました。この戦闘により、第二次長州征伐、四境戦争石州口の戦いの火ぶたが切られました。勇敢な戦死者に長州軍から費用が出され、地元の人たちによって手厚く葬られたのが、この「濱田藩 岸静江墓」です。車道の反対側に、扇原関門跡へと続く「旧山陰道」があります。扇原関門跡まで5分ぐらいです。関守 岸静江国治さんの許可がおりています。ただし車での通行は断固拒否です。
益田市の史跡に触れる事ができました。
齢30で忠義に殉じた忠臣 偉いなあ☺️
道路沿いでわかりやすかったです。
幕末期維新志士近代戦争の犠牲者。
石洲口の戦い跡界隈1864年大村益次郎率いる長州軍約1500名が山口を出て、山陰街道を北に進めて、津和野藩をなんなく通り、浜田藩の国境にある扇原関を通過した話が詳細に司馬遼太郎の“花神”に描かれている。 慶応2年(1866年)6月16日の朝(確か10時頃と言われている)、扇原関門に至る。浜田藩の岸静江国治は、大村益次郎等の通過を許さず、僅かな部下と急募の農民と共に守りにつき、戦闘が開始された。第二次長州戦争の口火になった。この話が“花神”に詳しい。 圧倒的多数の大村益次郎等を前に、岸静江はまず部下と農民を退去せしめ、一人関門を死守し、敵弾を受けて仁王立ちのまま絶命したとの話が鮮明に僕の頭に描かれています。その地に行きたく、今回、その場所に立ちました。 関門を通過した次の日、医光寺、勝達寺、万福寺に布陣していた幕府軍(浜田藩、福山藩)を敗走させている。
落ち着ける場所✨
岸静江国治の墓が多田地区の方により手厚く葬られておりました。
わずかな手勢で長州軍の前に立ちはだかった幕府側のお侍さん。関所跡とお墓があります。
| 名前 |
岸静江国治の墓 |
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| ジャンル |
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| 営業時間 |
[金土日月火水木] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
4.5 |
| 住所 |
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静かな場所でとても戦争があったとは思えない空気でした。山と森の中にあるので野生動物が怖いですが、歴史の一端を学ぶのに問題はありません✨