鎌倉の静寂に浸る江戸期供養墓。
毛利季光•大江広元•島津忠久の江戸期供養墓の特徴
毛利季光と島津忠久の先祖が並ぶ、特別な場所です。
法華堂跡の石段を登ると、歴史を感じる景観が広がります。
鎌倉市の静かな山腹に、江戸期供養墓が並んでいます。
20260502鎌倉殿の13人で源頼朝、北条義時など鎌倉幕府の礎を築いた大江広元の4男が毛利家を興し、島津家は頼朝の系譜にいたと言うことで、明治維新につながる縁が鎌倉時代に築かれていたなんて初耳でした。
北条義時の墓敷地内奥にある近代に建てられたお墓です。毛利孝光、大江広元、島津忠久が祀られています。階段左手は毛利・大江の墓とつながり、右の階段は島津へとつながっています。毛利季光(生年不明~1247年没)は、鎌倉幕府の御家人で、後に長州藩主となる毛利氏の祖となる人物です。幕府の創設に貢献した大江広元の四男で、父の所領のうち、相模国愛甲郡毛利庄(神奈川県厚木市)を相続したことから毛利姓を称するようになりました。季光は朝廷と幕府が争った1221年承久の乱で武功を挙げ、幕府の要職である評定衆に就くなど重用されました。しかし、北条氏と三浦氏が争った1247年宝治合戦で三浦方に付き、敗れた三浦氏一族とともに源頼朝の法華堂で自害したと伝わります。季光の墓所は、1823文政6年、第10代長州藩主毛利斉煕により鶴岡八幡宮の西側(雪ノ下の鶯谷)に造営されましたが、大正10年(1921年)にこの地に移設されました。大江広元(生年不明~1225年没)は鎌倉幕府の政所初代別当を務めた人物。源頼朝の側近として鎌倉幕府の創設に貢献しました。公家出身の広元は、鎌倉幕府と京都の公家との間の交渉で活躍し、頼朝の死後も、北条政子や第二代執権北条義時とともに幕府の運営を支えました。広元の墓は、毛利氏の祖・毛利季光が大江広元の四男という縁から、1823文政6年、第10代長州藩主毛利斉煕により造営されました。島津忠久(生年不明~1227年没)は、鎌倉幕府の御家人で、後に薩摩藩主となる島津氏の祖となる人物です。忠久の祖母が源頼朝の乳母だった縁から頼朝に重用され、平家追討などで活躍し、恩賞の一つとして南九州の島津荘の惣地頭に任ぜられました。島津家には、忠久が頼朝の庶子であったという説が伝わっており、1779年安永8年に、時の薩摩藩主島津重豪が頼朝墓に近いこの地に忠久の墓を造営しました。石段のふもと向かって左手には、三浦氏のやぐらがあります。
2025年9月21日午前訪問鎌倉市、鶴岡八幡宮の北東の山すそにあるお墓当日は鎌倉を自転車出回っており頼朝の墓をお参りしてからこちらへ灯籠のある入口から石段を登り法華堂跡に着き、そこから二筋の石段があり登ると毛利季光•大江広元•島津忠久のお墓がありやしたよあたりはとても静かで緑深く薩摩長州の藩主の御先祖のお墓が並んでるのは不思議な感じまた法華堂跡の崖には三浦一族のやぐらがあり歴史を感じさせたさあ。
島津忠久のお墓は1779年、藩祖が頼朝の庶子という由縁から作られたそうです。その後、1823年に長州藩の村田清風よってそのお隣に作られた墓所が毛利と大江のお墓。毛利のご先祖の親が大江広元で頼朝の墓所近くだと箔が付くし、島津には負けられないとでも思ったのか横に並べられています。つまり、どれもこれも根拠が胡散臭くてガチのお墓ではありません。大江広元に至っては近くにお墓だと伝わる場所がちゃんとあるらしく、そちらの方がまだ信憑性が高い気がします。
毛利家と島津家を仲人する様に大江家のお墓が並んでいます。以前、鹿児島在住のお方が話しておられました。「薩長同盟は坂本龍馬がやり遂げた出来事ではない。一介の浪人にはやれん、源頼朝の墓の奥に行けば分かる」と。それが、ここの事です。毛利家の家紋の入った燈籠が入口に有りました。手前の源頼朝の墓の入口には薩摩藩が立てた石碑が有ります。鎌倉で幕末のロマンを感じられる貴重なスポットだと思います😊。
毛利季光•大江広元•島津忠久の江戸期供養墓。(202211)※左から毛利季光の墓、大江広元の墓、島津忠久の墓とされている。毛利季光(生年不明~1247年没)の墓所は、文政六年(1823)に、毛利斉煕(なりひろ)によって鶴岡八幡宮の西側(雪ノ下の鶯谷の地)に造営されました。その後、大正10年(1921)現在地に移設。毛利秀光は、大江広元の四男。大江広元(生年不明~1225年)文政六年(1823)に第10代長州藩主毛利斉煕(なりひろ)が造営。島津忠久(生年不明~1227年)は、鎌倉将軍家の御家人で後に薩摩藩主となる島津氏の祖となる人物です。忠久の祖母が将軍源頼朝の乳母だった縁から頼朝に重用されました。平氏追討などで活躍し、恩賞の一つとして南九州の島津荘(しまづのしょう)の地頭職に任ぜられました。島津家には、忠久が頼朝の庶子であったという説も伝わっており、安永八年(1779)に、時の薩摩藩主島津重豪(しまづしげひで)が頼朝の墓に近いこの地に祖先の忠久の墓を造営。🅿️駐車場は近くの観光駐車場。🚃最寄り鎌倉駅。🚻トイレなし。※客観的に普通のものが『最高』の評価になりませんので悪しからず。
法華堂跡(北条義時墓)の上にあるお墓。元々は古墳時代の横穴墓だったものを江戸時代以降に転用したものです。毛利季光は毛利家の初代で宝治合戦の際に三浦一族と共に戦い自刃しました。毛利一族の多くが討死や自刃しましたが季光の四男の経光は越後にいて合戦に関わってなかったことから許され安芸国の領地を安堵されています。この毛利経光の子孫が戦国時代に中国に覇を唱えた安芸の毛利元就であり幕末明治に薩摩藩と共に明治維新を興した長州藩です。大江広元は毛利季光の父で源頼朝に仕え1185年頃に鎌倉幕府が成立した根拠となっている諸国に守護と地頭を置くことを朝廷に認めさせた文治の勅許を頼朝に献策した人物。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で推し(政子)に手を握られて文官なのにめっぽう強くなっていたあの大江殿です。島津忠久は島津家の初代。母が元は頼朝の側室であったことから島津家には忠久は頼朝の落胤だったという伝承が伝わっています。法華堂跡に現在の源頼朝のお墓を建てたのも江戸時代の薩摩藩主島津重豪です。
| 名前 |
毛利季光•大江広元•島津忠久の江戸期供養墓 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[木金土日月火水] 24時間営業 |
| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
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源頼朝や北条義時の墓所がある「法華堂跡(ほっけどうあと)」から、さらに奥の石段を上った静かな山腹に、「大江広元(おおえのひろもと)」、「毛利季光(もうりすえみつ)」、「島津忠久(しまづただひさ)」の3人の墓所(江戸期の供養墓)が並んでいます。古墳時代後期の横穴墓(やぐら)を転用して造られたもので、向かって右側に「島津忠久(しまづただひさ)」、中央に「大江広元(おおえのひろもと)」、左側に「毛利季光(もうりすえみつ)」の墓が並び、それぞれ玉垣に囲まれています。中央の「大江広元(おおえのひろもと)」は、頼朝の側近として政所(まんどころ)の初代長官を務め、幕府の基盤を作った天才実務家です。その四男である「毛利季光(もうりすえみつ)」は毛利家の祖、そして右側の「島津忠久(しまづただひさ)」は島津家の祖であり、いずれも鎌倉時代を代表する有力な御家人でした。