土山宿の美しい町並みを散策。
東海道 土山宿の特徴
本陣周辺の町並みは見応えがあり、訪れる価値があります。
東海道五十三次の49番目の宿場で、歴史が感じられます。
土山宿の町並みは東土山から北土山まで続き、魅力的です。
土山宿の町並みは東土山のあたりからはじまり、北土山のあたりまで続きますが、本陣の周りの町並みは大変素晴らしく、見応えがあります。
| 名前 |
東海道 土山宿 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 営業時間 |
[日月火水木金土] 24時間営業 |
| 評価 |
4.2 |
| 住所 |
|
|
ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
|
周辺のオススメ
土山宿(つちやましゅく)は東海道五十三次の49番目の宿場でした。江戸幕府はこの地を宿駅に指定し、宿場町として隆盛しました。1843年には家数351軒、人口1,505人、本陣2軒、旅籠屋44軒を数えました。東海道五十三次は江戸時代に整備された五街道の一つで、江戸と京の間124里8丁(487.8キロ)を結ぶ東海道にある53の宿場のことです。東海道五十三次には、旅籠が全部で3000軒近くあったといわれ、旅籠の数が最も多かった宿場は、七里の渡しの港があった宮宿(熱田宿)で247軒で、その対岸の桑名宿も120軒ありました。明治元年9月22日(新暦1868年11月6日)、明治天皇は満16歳の誕生日を最初の東京行幸中に迎え、土山宿に宿泊しました。明治政府は天皇の誕生日を天長節として祝うことを一月前に決めており、宿所となった本陣で第1回天長節の祝賀行事が行なわれました。平安時代に鈴鹿峠を越える伊勢参宮道が通るようになって以来、土山は難所を控える宿駅として発展しました。鎌倉時代には京と鎌倉を結ぶ交通路がさらに重要視され、武士だけでなく商人、庶民の通行も盛んになりました。しかし、明治の鉄道交通では鈴鹿峠の急勾配が蒸気機関車の仇となり、古代から続く土山宿の役目は終わりました。徳川幕府は慶長6年(1601)東海道に伝馬制度を定め、三河・尾張両国内の九つの宿に伝馬36匹の常備し、交通量が増えたため、寛永15年(1638)に一宿につき、人足100人・馬100匹を拡充しました。伝馬制はもともと7世紀後半頃に律令制の中央と地方間の情報伝達制度として整備され、大宝元年(701)の大宝律令では、駅使(えきし)と呼ばれた情報伝達者の休憩や宿泊のため、30里(約16キロ)毎に駅を設置しました。駅使(えきし)と呼ばれた情報伝達者は駅鈴を必ず携帯し、駅家に各5~20匹置かれた馬を利用して駅路上を通行しました。駅使の行程は、通常一日8駅以上(128キロ以上)、緊急の場合は一日10駅以上(160キロ以上)を疾駆したといいます。駅路は目的地に最短距離で到達するように直線的路線をとって計画的に敷設され、幅10メートル前後の大道でした。