関ヶ原で戦況を見渡そう!
岡山(丸山)烽火場/黒田·竹中陣跡の特徴
関ヶ原合戦の重要拠点、黒田・竹中陣跡が存在している場所です。
高台から関ヶ原を一望でき、当時の戦況を感じることができます。
竹林を抜けた先に金比羅神社があり、訪れる価値があります。
この周辺も含めて『岡山(丸山)烽火場』は、とても雰囲気が良くて素晴らしい眺望のところでした。専用駐車場があり、黒田長政の家紋(三つ藤巴)と、竹中重門の家紋(丸に九枚笹)の旗があるところから坂道を登って行きます。坂道の両脇には(孟宗竹)の美しい竹林が続き、入口付近には、サンシュユ(山茱萸)の黄色い花が満開で、「春小金花」の別名のように春を感じさせてくれます。竹林の坂道を過ぎるとすぐに「金刀比羅神社」が見えてきて、その先に『岡山(丸山)烽火場(丸山狼煙場)』が、いよいよ見えてきます。『関ヶ原の戦い』で、黒田長政と竹中重門が陣を敷き、開戦の狼煙(のろし)を上げた標高164mの丘陵地で、関ケ原一帯を見渡せる絶好の場所。頂上からは関ケ原の全域(笹尾山、松尾山、南宮山など)を一望でき、開戦の地として最適。正面には、「関ケ原古戦場記念館」が見えます。「関ヶ原の戦い」当日、慶長5年(1600年)9月15日午前8時頃、霧が晴れた際にこの場所から狼煙が上げられ、東軍諸隊に攻撃の合図が出された。陣跡になっていて、黒田長政、竹中重門が布陣した場所になります。●黒田長政は、石田三成を支えた剛の者「島左近」(しまさこん)を討ち取るなど、調略だけでなく武勇も存分に発揮しました。これにより、西軍の敗退は決定的なものに。徳川家康より最上の評価を受け、彼の所領12万石は4倍以上の52万石へと加増、筑紫(ちくし:現在の福岡県)一国を与えられました。こうして、黒田長政は一気に大大名へと成長しました。●竹中重門は、父「半兵衛」の跡を継ぎ、関ヶ原の戦いでは当初西軍に属していたが「井伊直政」の仲介によって東軍に鞍替し、みずからの本拠地・菩提山城を徳川家康に提供。幼なじみでもある黒田長政の軍に合力して、黒田勢と共に関が原で戦い、さらに戦後まもない9月19日、伊吹山山中で、西軍の武将「小西行長」を捕縛するなどの大功を挙げ、徳川家康から直筆の感状を受けた。幕府旗本(交替寄合席)として美濃岩出山6000石を安堵され、竹中家が代々継承した。
関ヶ原の戦いの際に、黒田長政と竹中重門が陣所を置いたところ。関ケ原駅からだと、駅を出てすぐに左に進み100メートルほど歩いて左折(北側に曲がる)。東海道線と国道21号線(関ヶ原バイパス)を越えてしばらく行くと、陣所跡見学のための駐車場がえりむすので、その手前を左側から登っていくと5分弱で到着します。見晴らしはよく、合戦場を見下ろすことが出来ます。
【 2025/06/17(火)布陣 】関ヶ原古戦場の「岡山(丸山)烽火場(のろしば)/黒田長政(くろだ ながまさ)・竹中重門(たけなか しげかど)陣跡 」→ 岡山は丸山とも通称される標高164mの丘陵で、小早川秀秋が布陣した「松尾山(まつおやま)」・石田三成が布陣した「笹尾山(ささおやま)」・東山道(中山道)・北国街道等が一望でき、戦いの最中も戦況がよく見渡せる場所でした❗️👀✨戦い当日の朝、黒田長政と竹中重門の約5千は東軍の最右翼としてここに布陣しました。重門は当時、関ヶ原一帯を領していたので、地の利を活かしたものと推測されます。重門は、はじめ西軍に与(くみ)していましたが、岐阜城🏯落城後、井伊直政(いい なおまさ)の仲介により東軍へ転じました。また、南宮山の吉川広家(きっかわ ひろいえ)と松尾山の小早川秀秋(こばやかわ ひであき)は、黒田長政によって既に調略(ちょうりゃく)されていました。午前8時頃に開戦すると、この場所から攻撃の合図の烽火(のろし)が上がったとされています。黒田長政と竹中重門は少年時代の約1年間、隣村で共に過ごした旧知の間柄だったそうです。秀吉が恐れた男:黒田官兵衛(如水)と、頼りにしていた男:竹中重治(半兵衛)の両息子が、共にここ岡山(丸山)で奇しくも陣を敷いたのでした。※秀吉の軍師だった竹中半兵衛の死後、それを引き継いだ黒田官兵衛が秀吉の軍師となり、秀吉を天下人へと導いたワケですが… 官兵衛の潜在能力を秀吉は見抜いていたようで、天下を取って代わられるのではないかと、警戒していたようです😱💦岐阜関ヶ原古戦場記念館で(電動アシスト無しの普通の)レンタサイクル🚲を借りて訪れましたが、関ヶ原巡りは坂が多いので😱💦、💰少し高いですが「電動アシスト付」のレンタサイクル🚲を借りて巡ることをオススメします❗️黒田長政・竹中重門陣跡は、近くの駐車場🅿️に自転車🚲を駐輪して、急な坂を5分くらい徒歩で登った場所にあります🚶💦 少し疲れますが😅💦、陣跡からの景色はとても良いです❗️✨😁👍徒歩で関ヶ原巡りをする方は、この場所から山道を通って石田三成が布陣した笹尾山や島左近陣跡のほうへ抜けることが出来るようです🚶以前📺ブラタモリでやってました。
歴史のロマンを2024年5月上旬、レンタサイクルでの関ヶ原探訪の際に寄りました。こちらの北側に駐車(駐輪)スペースがあり、そこから10分弱登ると辿り着きます。こちらからは戦場全体が見渡せ、設置されている説明板を読むことで理解を深めることができました。説明板には————————————————————-岡山は丸山とも通称される標高164メートルの丘陵で、松尾山・笹尾山・東山道(中山道)・北国街道等が一望でき、戦いの最中も戦況がよく見渡せたであろう場所である。戦い当日の朝、黒田長政と竹中量門の約5千は東軍の最右翼としてここに布陣した。重門は当時、関ヶ原一帯を領していたので、地の利を活かしたものと推測される。重門は、はじめ西軍に与していたが、岐阜城落城後、井伊直政の仲介により東軍へ転じた。また、南宮山の吉川広家、松尾山の小早川秀秋は、長政によって既に調略されていた。午前8時頃に開戦すると攻撃の合図の蜂火を上げ、細川忠興・加藤嘉明・金森長近らとともに笹尾山の石田三成を攻撃したが、三成の家臣・島左近(清員)の奮戦により幾度も押し返される。長政は戦況を打破すべく、一隊を割いて笹尾山北側へ迂回させ、石田隊を側面からも攻撃した。この策は功を奏し、左近は長政の家臣・菅六之助の銃撃で負傷したとされる。一進一退の攻防が続く中、正午頃に秀秋らが寝返り戦況は一気に好転。西軍諸隊は総崩れとなって敗走する。黒田隊は東軍諸隊とともに、なおも踏み止まっていた石田隊に最後の猛攻を仕掛けてこれを壊滅させ、ついに勝負を決した。————————————————————とあり歴史のロマンを感じることができました。
ここの裏側に駐車場があり、そこから約2.3分登ったところにあります。石田三成の陣も徳川の陣も見渡せる場所です。ここからだと戦況はよく分かったのではないかと思います。関ケ原観光ガイドHPより国道21号線(関ケ原バイパス)の北側にある小高い山が、岡山(丸山)になります。登頂すると、南宮山・松尾山・笹尾山・中山道・北国街道・伊勢街道…といった、合戦時の重要なポイントを一望することができます。豊臣恩顧の武将であった竹中重門は当時関ケ原一帯を領しており、最初は西軍に属していましたが、岐阜城落城後、黒田長政の勧めにより東軍につきました。合戦時には、長政とともにここへ陣取り、戦機を見て烽火(のろし)を上げました。山頂からは、周辺の状況が把握しやすいこともあり、開戦の烽火を上げるには好適地だったことがわかります。
関ヶ原を一望でき、戦況が手に取るようにわかります。また、ここからは石田三成の陣地確認することができません。恐らく当時もそうだったのかな?だから、鉄砲隊を密かに石田三成の陣地の側面にまわすことができたんでしょうね。この地をよく知っている竹中重門だからこそこの場所に陣を置くことができたんでしょうね。ここは登り口が少し分かりにくいです。駐車場のやや手前を左に入り、竹やぶを道なりに登ると着きます。
関ケ原合戦における東軍黒田長政と竹中重門の陣地です。東軍諸陣の中で最も見晴らしがよい高台にあり、烽火場の役目を果たしました。黒田長政は合戦の最中、迂回部隊を率いて山中を抜け敵大将石田三成の陣の側面を突き、膠着した戦いに突破口を開くという功績を上げました。竹中重門はこの地に所領を持っており、地理に明るかった事もあると考えられます。戦場後方ではあるものの、重要な役割を果たした陣場です。
岡山烽火場竹中重門は、最初は西軍に属していましたが、岐阜城落城後、黒田長政の勧めにより東軍につきました。合戦時には、長政とともにここへ陣取り、戦機を見て烽火(のろし)を上げました。山頂からは、周辺の状況が把握しやすいこともあり、開戦の烽火を上げるには好適地です。
見晴し絶好✴登る価値あり。
| 名前 |
岡山(丸山)烽火場/黒田·竹中陣跡 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 営業時間 |
[水木金土日月火] 24時間営業 |
| HP |
https://www.sekigahara1600.com/spot/kuroda-takenakajinato.html |
| 評価 |
4.1 |
| 住所 |
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周辺のオススメ
関ヶ原の戦いで一番の戦功を挙げた武将、黒田長政と竹中重門の陣跡(岡山烽火場)です。駐車場から数分登った小高い丘の上に位置しており、東軍視点で関ヶ原全体を眺望できます。小早川秀秋の寝返り交渉などの調略から、開戦後の石田三成隊への攻撃に至るまで、縦横無尽に活躍した長政の知略と武功に思いを馳せることができます。