ひめゆり学徒隊の命懸けの道。
飯あげの道の特徴
ひめゆり学徒隊が使用した歴史的な道を体験できる場所です。
映画で描かれた悲惨な過去が残る、感慨深いスポットです。
実際の病院壕を見学し、戦時の苦労を感じられる貴重な体験ができます。
年前沖縄は戦場だった黄金森公園の陸軍病院南風原壕第20号から丘を越えて南風原文化センター側へ飯上げの道を歩くと住宅街の公園の横に炊事場だったことを示すプレートがある。ひめゆり学徒はこの場所から降り注ぐ艦砲の砲弾の中を重いごはんを待って丘を登り、越えていくのがどれほど大変だったか。飯上げの途中で砲弾にやられてなくなった女子生徒も。体験談を読んでも、肉体的には飯上げが一番大変だったと書かれている。
2025年3月7日に散策。南風原文化センターから陸軍病院南風原壕に至る小道。沖縄戦では炊事場(文化センタから西の喜屋武農村公園付近)からこの道を通って食事を人力で運搬していたそうです。今でも足場が悪く、雨でも降ったらぬかるみに足を滑らすこと間違いない悪路だと思いました。空からは機銃掃射、悪路、地獄絵図の病院壕。実際に歩くと看護学徒隊はじめ負傷兵ら悲惨さを少しは実感できるかも知れません。
飯上げとは、軍事用語で「食糧運搬」のことです。黄金森に今も残る飯上げの道は、沖縄戦のときにつくられた道ではなく、イシジャー山や仏の前(※1)といった御嶽や拝所に行くため、周辺住民に古くから使われた山道でした。飯上げ作業は早朝と夕方に、衛生兵・箸護婦・ひめゆり学徒で行われました。炊事場で用意されたご飯を一年箱(18ℓ)の 8分目くらいまでつめ、約 100人分としました。重さ約 14kgの樽を 2~ 4人がかりで担ぎ、砲爆撃の中、炊事場のある喜屋武集落からそれぞれが勤務する病院壕まで運びました。山道は足場が悪く、転倒したり、こぼしたり、爆風で舞い上がる土埃が一斗樽に入ったりしました。壕に戻るとそのご飯でおにぎりを作りますが、沖縄戦の初めの頃はテニスボールぐらいあったおにぎりが、しまいにはピンポン玉程度の大きさ 1個となり、患者からは「量が少ない」「土が混ざってガリガリしている」など文句を言われたそうです。※1 健康祈願やお祝い行事で無病息災を祈る拝所の一つ。戦時中は戦争に関する祈願を行う場所になった。-案内板より-
A rather steep route that the students took whilst collecting food from a different area and then transporting it whilst being under fire from the Americans.
ひめゆり学徒隊が飯炊き場から病院壕まで食料を運んだ道。砲弾が降り注ぐ中、命懸けの仕事で実際にここで亡くなった学徒もいたそうです。
ひめゆり学徒隊や日本軍人が実際に使用していた豪を見学できる。自由に入場出来るのかと思っていたが、予約が必要らしい。知らずに受付に声をかけたらたまたまガイドしてもらえたので運が良かった。入場料は大人1人300円。ヘルメットと懐中電灯を渡されて20号豪の見学。ひめゆりの塔訪問時に一通り予習していたが、実際に現場を見ると想像よりも悲惨な現場であっただろうことが伺えた。戦争の悲惨さを後世に伝えていくのにとても貴重な施設だと思った。
ひめゆり学徒隊や日本軍人が実際に使用していた豪を見学できる。自由に入場出来るのかと思っていたが、予約が必要らしい。知らずに受付に声をかけたらたまたまガイドしてもらえたので運が良かった。入場料は大人1人300円。ヘルメットと懐中電灯を渡されて20号豪の見学。ひめゆりの塔訪問時に一通り予習していたが、実際に現場を見ると想像よりも悲惨な現場であっただろうことが伺えた。戦争の悲惨さを後世に伝えていくのにとても貴重な施設だと思った。
特に医療的な知識技術のない女子学生らが動員され、撤退の後、壕に積み重なる負傷兵の看護そして飯を作る任務昼間は煙が立ち昇る故に夕暮れ以降に小走りに見つからないよう山道を走り飯を炊く爆弾で吹き飛ばされたり、其の悲惨さは映画で再現されています。
| 名前 |
飯あげの道 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 営業時間 |
[土日月火水木金] 24時間営業 |
| HP |
https://www.town.haebaru.lg.jp/kankou/docs-kankou/2013031300023/ |
| 評価 |
4.3 |
| 住所 |
|
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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ひめゆり学徒隊が砲煙弾雨の中、命懸けで運んだかつての道が残っています。南風原文化センター側から行くと頂上まで整備されており行きやすいですが、雨天時は滑るので注意が必要です。頂上から20号壕入口付近までは写真の通り未整備で、思いのほか急峻な為、当時の苦労が一部体験できます。