日本海を望む高台の歴史。
青塚山砲台場の特徴
日本海を一望できる高台に位置する史跡です。
寛永17年に設置された沖の口番所の跡があります。
石積がしっかり残っており歴史を感じられます。
日本海が見渡せる高台で石積が残っています。
Apr'19.2022 画像撮影。幕末浪漫の名残りがこんなところにも。以下転載。寛永17(1640)年、矢島藩との領地交換により象潟を領地とした本荘六郷藩は塩越浜谷地に「沖の口番所」を置いて「塩越湊」の管理を行っていましたが、この番所は津波によって破壊され、天保4(1833)年 青塚山山麓に新たな番所が置かれました。幕末、異国船の日本近海への出没が頻発すると、文政8(1825)年 幕府は「異国船打払令」を発効しました。本荘藩領でも「(嘉永元年)四月廿日、去る十五日 飛嶋沖唐船相見え候に付、庄内様、吹浦、酒田、大山、鼠ヶ関御堅め人数差出候に付 此方へも御知らせこれあり候に付、塩越、金浦両所へ大筒御遣なされ候」(本荘藩小頭役 須藤五郎右衛門の『日記』)等の異国船への動きがあり、このため元治元(1864)年 本荘六郷藩は塩越村の海岸警備の為、青塚山番所に大砲掛 国松藤弥、鉄砲掛 国松嘉太郎らを配しました。明治2(1869)年、廃止。
沖の口番所・台場跡寛永17年(1640)に城代奉行が置かれ、現下浜の町の高燥地には沖の口番所を設けて港の修補などにあたった。この番所は津波のため、天保4年(1833)に青塚山麓に移転。奉行も番所も明治2年(1869)まで存続したが、番所建物は昭和3年ころ解体した。元治元年(1864)9月1日、塩越海岸防備のため、領主より国松東弥および付添5人が青塚山大砲掛を命ぜられ、海岸防備にあたった。現在、青塚山に砲台場跡の石づみ(石組)が残っており、秋田県公文書館にも明治5年6月、塩越村里正須田惣左衛門が提出した青塚山砲台場図面が残されている。にかほ市教育委員会。
| 名前 |
青塚山砲台場 |
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| ジャンル |
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| 評価 |
3.3 |
| 住所 |
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小山の上からは海が良く見えます。江戸時代に海の前にある小さな山に砲台場を造って海岸警備をしていたようです。番所の建物は昭和3年ころ解体されたそうです。