歴史巡り、心に残る長久手の首塚。
長久手古戦場 首塚の特徴
リニモ春風ウォーキングの途中に寄れる静かな首塚です。
長久手の合戦で戦死した武者をしっかり弔う祠です。
色金山歴史公園近くにあり、地元の人に大事にされています。
『小牧・長久手の戦い』の討死者を葬った塚。戦後に放置された遺体を哀れに思った安昌寺の和尚が村人と共に塚を築いて供養したとある。
国の指定史跡です。石碑が建っており、長久手の合戦で戦死した武将達の屍がここに葬られているのかと思うと歴史の重みを感じます。
長久手古戦場跡公園から北東約1kmの集落地のなかにある塚です。長久手市は四国のような横に長方形の町で、東西に県道6号線(広小路通、力石名古屋線、猿投グリーンロード路線)が貫き、明確な市街地がわかりづらい自治体です。ただ名古屋市に隣接する市域の左半分は住宅地で、右半分は昔賑わった愛知万博区域のある丘陵地で、都市と自然が調和する好きな街です。この首塚はちょうど長久手市の真ん中の丘陵地へ被る手前の平野部にあり、すぐ北にこの首塚を祀った安昌寺と色金山があります。このような平野部と丘陵地の狭間では、設楽ケ原(長篠古戦場)や桶狭間のような大規模な合戦地になりがちなのでしょう。4月には首塚まつりもあるらしく、地元の方々に大切に供養されている史跡のようでした。
リニモ春風ウォーキングで寄らせていただきました。お祭りやったようですが、30分ぐらいで行事はとっとと終わったようです。2024.4.7.
ちょっと狭い道にあるので、駐車場が近くにありません。石碑がたくさんありますが、かなり小さな広さです。
住宅地にありました。お参りしてきました。
久岳山安昌寺/雲山和尚が敵味方関係なく長久手の合戦の戦死者を弔った首塚。街中にひっそり佇む史跡、綺麗に手入れされて良かったです😌少し東側に行くと安昌寺の細い参道があります🚶道が狭く車の駐車は難しいです、安昌寺の駐車場利用が安心です🚙
長久手の戦いの時のたくさんの戦死者の首を、集めて手厚く埋葬し供養しています。塚には、1706(宝永3)年と1910(明治43)年に建てられた古い石碑があります。私は、近くの色金山歴史公園の駐車場から歩いて行きました。
2022年2月下旬に小牧・長久手の戦い関連史跡巡りで初めて行きました。住宅地の中にあります。1584年長久手合戦時、この辺りは至るところ戦死者の山となり、その惨状を目の当たりにし、心を痛めた安昌寺(北方面に5分程歩いた所にあり)の雲山和尚は村人達と共に屍を集めて埋葬し塚を築いて供養したとのこと尾張名所図会にもこちらか描かれており、ドラマを感じることができました。
| 名前 |
長久手古戦場 首塚 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
| HP |
https://www.pref.aichi.jp/kyoiku/bunka/bunkazainavi/kinenbutu/siseki/kunisitei/0864.html |
| 評価 |
4.1 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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書にて「長久手古戦場 首塚」をしらべてみます長久手の戦いの後、死骸がそこら中に転がっている凄惨な情景であったとある。すぐそこの「安昌寺」の住職であった「雲山和尚」が、その髑髏を埋めた場所が此処であるという。[碑文]を見るとわかるが、「伏尸満野(ふくしまんや)」伏した死体が戦いの後、野原に満ちている、とあるが、和尚が拾い集めたのは「髑髏」とある。そこには、倒れた武士たちが髑髏になるまでの時間の経過があり、かたづける機会がおとづれたのは、髑髏になった頃ということが分かる。___________❶【参考 愛知県史蹟名勝天然紀念物調査報告 大正15年】首塚長久手村(現在の長久手市)の安昌寺の前の道路に沿って存在している。高さは六尺(約1.8メートル)、面積は十六坪ほどである。伝承によれば、はじめ長久手の戦いがちょうど終わったとき、敵味方の死体が累々と重なり合って山のようになっていた。その光景は実にいたわしく、むごたらしさの極みであった。安昌寺の住職であった「雲山和尚」は、これを見て、いたみ悲しむ情に堪えかね、里の人々とともに首級を、その高い場所に集めてこれらを埋葬した。そして、そのまわりに香や花を供えて供養した。里の人はこれを「首塚」と呼び、首塚の碑がある。[碑文]長湫之戰方ニ罷。伏尸満野。狀極凄慘。安昌寺主雲山憫之。收拾其髑髏葬于此。名曰首塚。寶永中福富親茂建小碑表之。爾來常不断香華。今則民居爲郷。蹟將湮滅。郷人深慨之。繞以石柵更立一碑。記其由。欲用不朽遺跡。又慰遊魂也。明治四十三年四月大鹿英太郎 撰青山 亮 書[碑文の意味]長久手(長湫)の戦いがちょうど終わった。野原には遺体が満ちあふれ、その状態は極めて凄惨(せいさん)であった。安昌寺の住職であった雲山はこれを憐(あわ)れみ、それらの打ち捨てられた髑髏を収拾して、この場所。名づけて「首塚」という。宝永年間のさなかに、「福富親茂」が小さな碑を建てて、これを明らかにし表した。それ以来、常に香や華が途絶えることはなかった。今(明治)となっては、民家が周囲に立ち並んで村落をなすようになり、この遺跡がまさに消滅しようとしていた。村の人々はこれを深く嘆き悲しみ、石の柵で囲み、さらに新しく一本の碑を建てて、その首塚の由来をここに記した。遺跡を後世に伝えて朽ち果てさせないようにしたいと欲したためであり、また、彷徨(さまよ)える魂を慰めるためでもある。明治四十三年四月大鹿 英太郎 撰(文章作成)青山 亮 書(文字揮毫)