五穀豊穣の神、佐々久神社へ。
佐々久神社の特徴
御祭神は大鷦鷯命と神八井耳命が祀られています。
大鷦鷯命に由来する歴史深い神社です。
神八井耳命の信仰が息づく場所です。
延喜式神社の一つに数えられている佐々久神社は、五穀豊穣の神として村人から尊ばれてきた。当初は、南端に社殿があったが天授五年(1379)細川頼之が阿讃土の兵四万をもって来攻の時、伊予の守護職、河野通尭はこの地に陣をしき坑戦したが敗死。頼之は当社に放火し、社殿、神器すべて焼失した。後に跡地へ小社を建立したが、亨保十二年(1727)五月に現在地へ遷座したと伝えられる。また、元禄十四年(1701)の旱魃時に藩命により十七日間祈雨祭を行ない、瑞雨を得たので米の寄進があった。以後祈雨、祈晴、五穀豊穣の祈願が度々行なわれ神徳を得たと伝えられる。当社の祭神は、おおささぎの尊、神八井耳命の二つの神である。大鶴鷺尊は、巨大な古墳で知られる仁徳天皇で、民のかまどに煙がたつのを見て、国が富んだことを喜ばれたと云われ、善政をもって知られる天皇です。崩御された時、村人がその徳をたたえて祭ったのが神社の始まりと伝えられる。また、佐々久の社名は「おおささぎ」の語韻から名付けられたと記されている。神八井耳命は伊予の国造りをした神さまである。この神社に次のような古歌がある。「風さわぐ佐々久の神の端籬にぬさと手向くる霧のふるらん」この歌が天気を左右することを表現していると思われます。(ふるさと探訪参照)
御祭神は大鷦鷯命、神八井耳命。神八井耳命の名は、自分はここで初めて知りました。神武天皇の皇子のひとりで、多氏の祖だそうです。伊余国造が多氏から出ているので、祀られているのかな?と思いましたが、このあたりは小市国造の領域だったはずなので、少々不思議。神紋も『折敷縮三文字』で、越智系ですし(といっても、伊予には御祭神に関係なく三文字紋の神社さんが多い)。----佐々久山の北側の道(本来メインの参道だった?)には、現代では上水道施設があり、進入できないため廃社されたと勘違いする方もいらっしゃるようですね。現役の神社さんです。東の小径や西の小道から参拝できますよ。自分は東から徒歩でのぼりました。西からなら四輪車でも鳥居まで行けそうです(ただし途中、排水用の溝があります)。
御祭神は大鷦鷯命、神八井耳命。神八井耳命の名は、自分はここで初めて知りました。神武天皇の皇子のひとりで、多氏の祖だそうです。伊余国造が多氏から出ているので、祀られているのかな?と思いましたが、このあたりは小市国造の領域だったはずなので、少々不思議。神紋も『折敷縮三文字』で、越智系ですし(といっても、伊予には御祭神に関係なく三文字紋の神社さんが多い)。----佐々久山の北側の道(本来メインの参道だった?)には、現代では上水道施設があり、進入できないため廃社されたと勘違いする方もいらっしゃるようですね。現役の神社さんです。東の小径や西の小道から参拝できますよ。自分は東から徒歩でのぼりました。西からなら四輪車でも鳥居まで行けそうです(ただし途中、排水用の溝があります)。
| 名前 |
佐々久神社 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 電話番号 |
0898-68-6425 |
| HP | |
| 評価 |
3.7 |
| 住所 |
|
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佐々久神社(ささくじんじゃ)。愛媛県西条市安用。式内社(小)、旧村社。【祭神】大鷦鷯命(おおさざきのみこと) 神八井耳命【関係氏族】雀部臣(さざきべのおみ)資料によると、佐々久山にある神社。佐々久山は南北約800mの和泉砂岩からなる丘陵。丘陵には南端から北端まで弥生時代から古墳時代の遺跡・古墳が多数遺存し、道前平野最大の遺跡群である。大鸛鷯尊、つまり第16代仁徳天皇の崩御の際、当地の民がその徳を慕って当社を創建したという。「おおささぎのみこと」の音韻に合せ、佐々久の地名が生まれ、当社号として定着したという。もともとは佐々久山の西南麓、南尾崎に鎮座していたと伝わる。伊予国造の雀部臣の祖神である神八井耳命も併せて祀る。仁徳天皇の音韻ではなく、もともと佐々久という地名があった、との考えから、当社御祭神は本来、佐々久から「裂く」として、磐裂神・根裂神とする説もある。鎮座する佐々久山は「如龍蛇幡中野首南尾北」とあるように龍神のイメージも重なっており、旧地は龍の首に当たる部分。南北朝時代の天授5年(1379年)、細川頼之の伊予侵入で焼失したという。後に小祠として再建された。江戸時代の元禄14年(1701年)、夏の旱魃祈雨祭が執行された記録が残る。享保12年(1727年)5月15日に現在地に遷座、社殿が造営され、天保12年(1841年)6月にも造営された。とあります。