歴史を感じる細久手宿、48番目の宿。
中山道 細久手宿の特徴
江戸から48番目の宿で、歴史を肌で感じられます。
大黒屋旅館に宿泊し、中仙道散策を楽しめます。
JR瑞浪駅から20分ほどの静かな山道に佇む宿です。
中山道六十九次48番目の宿、細久手宿。中山道の元となった律令時代からある東山道では、大井宿(恵那)から御嵩宿までは今の中山道よりもずっと南の平地部分を通るルートであったが、江戸時代初期に中山道を作った際には、北寄りの山道を歩くルートに変更され、大井宿と御嵩宿間が八里(約32Km)あるため、まずは1604年に大湫宿が作られ、その後、1610年に細湫宿が作られた。1606年に大久保長安の命により7軒の仮宿が作られたが、放火により全焼したため1610年に再建した。ルートをわざわざ険しい山道に設定した理由は現在では不明のようだが、「大湫宿本陣由緒書上」には、天正元年(1573)から大湫の開拓が始まったことが記されていることから、戦国時代末期から既に距離が近い直線的なルートとして考えられていたようだ。当時は織田信長の影響下にあったことから、より近いルートとして信長が命じて作ったのかもしれない。広重の描く細湫宿は江戸方の見附(東側の出入り口)手前にある見晴台という場所から細湫宿を見下ろしたものだが、いまは工場が建っていルートも少しだけ変わっているのでこの光景は見られない。近いのは工場を迂回した現在の道から見下ろす風景だろうか。往時、人口は256人、戸数は65戸、宿場の長さは3町45間(408m)。本陣(大名が泊まる宿)1軒、脇本陣(大名の家臣が泊まる宿)1軒、旅籠24軒。ちなみに1843年の記録で細久手の人口は256人となっているが、これは中山道宿場町の中でも2番目に少ない(1番少ないのは鵜沼宿の246人)。戸数65戸も2番目に少ない(1番少ないのは安中宿の64戸)。
細久手宿は江戸から48番目の宿。東の大湫宿から西の御獄宿までの距離が長く、両宿の人馬が難渋したため、仮宿を設けたのが始まりです。天保14年(1843)年の記録によると、戸数は65軒、うち24軒が旅籠を営んでいたようです。家々の境は石積みで区画されており、今も新宿設置の頃の様子がうかがわれます。
江戸時代に作られた大黒屋旅館は、今でも中仙道を散策される方に宿泊を提供されてます。
スタンプラリーゲット。
歴史を感じます。中央部分に駐車場あり。
中山道はたいがいR19沿いの川筋にありますが大湫宿から細久手宿にかけては完全なる山道になってしまいます。平野部を遠回りするのでなく急峻でも山歩きで距離を短くした感じの道筋になってます。クテというのは地形がくねくねした山坂や狭間の多い場所という意味らしいです。大湫宿に比べると街道筋を彷彿とさせる建物はあまり残ってません。
中津川宿からは国道19号をはなれ、この辺りはけっこう山奥の、曲がりくねったアップダウンが多い道です昔の宿場町らしさはほとんど残っていません。しかし一軒だけ旅館が残っていて、昔ながらの風情がある素敵な建物で、とてもいい雰囲気です。
人知れず佇む旧道の宿跡です。昔の街道に思いを馳せ、ゆっくり訪れると良いのでは。
JR瑞浪駅からバスで2〇分程、本日(11月2日)中山道ウオーキングのイベントの出発点です。この街道は和宮が江戸にお下りされた道、姫街道といわれています。姫様の衣装で迎えてくれました。
名前 |
中山道 細久手宿 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP | |
評価 |
3.8 |
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特に遺構は見当たらない。飲食店等もなく町並みも当時の面影はない。