京阪電車が通う蝉丸神社。
関蝉丸神社下社の特徴
京阪電車が境内を横切る、不思議な光景の神社です。
昭和53年に奉納された提灯が残り、歴史を感じさせる場所です。
元々は立派な神社で、蝉丸を祀る芸能にご利益があるとのことです。
ブルーシートが痛々しいなあと思ったら、2013年の台風で本殿の屋根が壊れたことに加え、2022年7月には拝殿(幣殿)の梁が崩れて、内壁も剥がれ落ち、切羽詰まった状況とのこと。一昨年の復興支援クラウドファンディングで集まった金額でも、修復できないらしい。もう一度クラウドファンディングに挑戦するそうですが・・・
観光的要素が無い静かな神社です。御由緒によると、元々は旅人の守護神をお祀りする神社として弘仁13年(822年)に創建されたのですが、天慶9年(946年)に小倉百人一首の「これやこの 行くも帰るも分かれては 知るも知らぬも逢坂の関」で有名な蝉丸を合祀したとのことです。その関係もあって、参道入口には『芸道祖神』の石碑が建っています。また、参道の鳥居のすぐ前を京阪電車京津線が横切っており、踏切があります。電車が通過する時はおもしろい構図ですよ。
鳥居の直前を電車が通ります。蝉丸型の灯籠があるのは初めて知りました。帰りは赤い蝉丸の看板が印象的でした。
百人一首の中で坊主頭のカードが何枚か有る。その中の「蝉丸」(せみまる)は後醍醐天皇の四男である。しかし生まれつき盲目の為に天皇家に相応しくないと使いの者から宮廷を追放される。今の京都から滋賀の途中に有る逢坂山の寺に出家させられるのである。その理由は、皇位継承上問題があったり、他の権力者たちに政権奪取のチャンスを与えてしまう恐れもある為でもあった。また天皇の【三女】も逆髪(さかがみ)と言って生まれつき、逆立った髪の為に悩み、果てには狂女となり浮浪者にまで成り果てる・・・(この時代女性は遺棄された!)しかし、弟の蝉丸は歌人としても優れ、百人一首に選ばれている。そして音感が鋭いのか琵琶の名手でもあった。ある夜、蝉丸が粗末な茅葺の舎で琵琶を奏でていると、姉が聞き覚えのある音色に誘われて行くと、なんと涙ながらの偶然再会!互いに追放された者同士、授けられた運命の悲劇を朝まで語り慰め合い、最後には別れていったと言われている・・・・・。今では、一号線大津に入る手前の【関の蝉丸神社下社】には芸能、演奏者の関係の方々が時折、参拝されている。
神社のすぐ前を京阪電車が走っているという面白い風景が見られます。社殿は数年前の台風の影響で倒壊のしそう。クラウドファンディングをしているそうです。百人一首で人気の蝉丸ゆかりの神社。大切にしたいですね。
小さいながら絵や井戸など楽しめる要素が多い、元々は清水蝉丸神社だったという琵琶法師の名で知られる蝉丸を祀っており芸能にご利益があるとの話、
信楽でも見たが電車の線路がある…創祀が天慶9年(946)という。いにしえの歌人の声が聞こえそうな古い神社がある。主祭神は蝉丸大神(芸能の神)と猿田彦命(街道の守護神)「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」この上にある逢坂の関は交通の要所だったから、和歌に良く登場する。歌人の蝉丸は庵を結び、行き交う旅人に出会いと別れの歌を詠んでいる。没後は芸能の神として崇められた。境内には関の清水と歌碑、重文の灯籠、紀貫之に小野小町、上に上れば上社に蝉丸神社に芸能人の名前とお宝は沢山ある。だが、シートに覆われた本殿、環境の手入れは寂しさを感じる😢5/29(日)ここで関蝉丸芸能祭、本年限りと有る。聞けば復興に向けて委員会が立ち上がっているようだ、頑張れ、チャリんだが、手を合わす🙏
以前、酔狂にも大津から歩いて逢坂の関を越そうと思い付き歩きました。となれば知るも知らぬもこちらにお参りせずにはすみません。上社の方にもお参りして、疲れましたし車が多いのにも辟易しましたけど良い経験だったと思います。
かなり荒れ果ていましたが、元々はかなり立派な神社だったのはわかりました。荒れ果てている分だけ『色々な歴史があったんだろうな』と、一人で勝手に想像してました。他には有名な方か分からないのですが龍神画を描かれていている [HIDEKI]さんの龍の絵が奉納されていました。漢字は分かりませんが自分の名前も英樹なのでなんか嬉しかったです。後は蝉丸神社に関係有りませんが、こちらの神社からも、1921年に造られた[上関寺跨線橋]やフランジ音を和らげる為のスプリンクラを見ることが出来ました。
名前 |
関蝉丸神社下社 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
077-524-2753 |
住所 |
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HP | |
評価 |
3.9 |
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踏切を渡って参拝する、一風変わった神社です。無人の神社です。