神秘の宇陀松山城へ。
宇陀松山城址の特徴
秋山氏の居城として築かれた宇陀松山城は見応え満点です。
道の駅宇陀路大宇陀からのアクセスも楽しめる立地です。
発掘調査中の遺構が多く、歴史を感じられるスポットです。
まだまた発掘調査中ですが、規模も広く見応えがあります。破脚されましたが、遺構は良く残っています、登城は長袖長ズボンで...特に神社側は藪です💦
素敵です。駐車場🅿️&お手洗いはありません。近くの道の駅に車を停めて、お手洗いも済ませて行きましょう。あと600メートル。から始まって、あと200メートルまでは車道なので、車で行きたーい。と思うほど上りです。あと100メートルは舗装されていない人1人が通れる程の山道を転けないように登ります。けれど、草が見えてくると、お城があった雰囲気が・・・ワクワクと頂上からの景色に期待大!30分位登ったけれど素敵でした。
宇陀郡の有力国人の秋山氏の居城として南北朝時代に築いたのが始まりとされます。天正13年1585年に豊臣秀長が大和郡山に移封されてから秋山氏は退去しました。その後、関ヶ原の戦いにおいて福島正則の弟の福島高晴が入城、大坂夏の陣において福島高晴は豊臣方に内通したとし改易され破却され廃城となりました。登城口から道が整備されていてかなり登りやすいです。本丸跡までの100メートルまでが山道ぽい感じですが特にキツイ所はありません。本丸跡からの眺めが最高です。
2024.1現在発掘調査を行っていたが、天守から200メートルを切ってから登っていく山道はなかなか趣ある。虎口も何度か曲がりくねり、ほどなく天守に到着すると、大峯山系の眺めはよい。縄張りも連郭もしっかり天守を守っているのがよく分かる。駐車場から天守200メートルまでのアスファルト道が若干つや消しか。
城の遺構もしっかり残っていて楽しめました。また、山頂からの景色は美しく最高に気持ちいい。…………………………………………………………………………………宇陀松山城は南北朝以来、宇陀郡の有力国人秋山氏の本城として築かれました。天正13年(1585)、豊臣秀長の大和郡山入部に伴う秋山氏の退去後は、豊臣家配下の大名の居城として改修・整備が行われ、大和郡山城・高取城と並ぶ大和国支配の拠点となりました。しかし、関ヶ原合戦の後入封した福島高晴が、元和元年(1615)、「大坂の陣」直後に改易されたことにより城は取り壊されました。
道の駅宇陀路大宇陀に車を停めて宇陀松山の街並みを楽しみながら春日神社から松山城跡に登りました。別名秋山城。本丸跡からの見晴らしは素晴らしく奈良県景観遺産にも指定されています。
国人城主秋山氏の居城をルーツとする山城です。織豊期に、豊臣政権下の大名が入部し、近代城郭として整備されました。石垣は多くありませんが、空堀や各郭が明確に残っており、往時を想わせるには十分です。また、山の頂を切り開いているため、四方の眺望が良く、遠くの山々まで見通せます。城下町からは徒歩15分程度でしょうか。いい散歩になります。
真田戦記宇陀松山城奈良県宇陀市大宇陀春日駐車場が、わからず結局は道の駅から登城して城下も少し歩きました。宇陀松山城は、福島正則の弟・福島高晴の居城として知られています。南北朝時代に秋山氏が秋山城を築いたことにはじまりますが、豊臣政権においては、伊藤義之、加藤光泰、羽田正親、多賀秀種らの居城となり、大規模な改修が行われ近世城郭へと移行しました。大和郡山城や高取城とともに大和国支配の要として認識されていました。関ケ原後は福島高晴が入城しましたが、1615年の大坂夏の陣において豊臣方に内通したとして、高晴は改易され城もて破却され廃城となりました。城下町は重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
今日は駐車場まで入ることが出来ずふもとから600メートルほど登りました。お天気が良かったので見晴らしはよく登った甲斐はありました。道の駅からでも歩けますね。
名前 |
宇陀松山城址 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0745-82-3976 |
住所 |
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HP | |
評価 |
4.1 |
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雪を気にしながら来ましたが、天気に恵まれました。残存している石垣は多くないですが、城割が綺麗に確認できました。