懐かしの石碑と狸、隠れた寺。
浄西寺(大島霊場第72番)の特徴
古い石碑が2基あり、歴史を感じるお寺です。
オレンジロードのオブジェが懐かしく心温まります。
辺鄙な場所ながらも訪れる価値がある寺院です。
オレンジロードに面しているオブジェ(龍と信楽焼の狸が大好きです)が懐かしく訪ねました。お寺が素晴らしく神聖な時間を過ごしてきました。
7年前に初めて訪れました。油宇海岸及び集落を見下ろせる山の中腹(高台)に所在する浄土宗の寺院です。 鎌倉時代に造立された石塔婆2基を見学に参りました。阿弥陀碑、観世音碑、勢至碑の3体で三尊碑と云われていますが、勢至碑がなくなっております。瀬戸内地方では最古の石塔婆(石塔)であるそうです。貴重なものを観ることができました。 ここを訪れたもう一つの理由は、第二次長州征討の際に、この寺院に砲台が築かれていたらしいからです。ここ大島宰判(萩藩の行政区画)には、海防僧「月性」の門下もおり、奇兵隊のような諸隊が早くから結成されていました。「大島郡農兵」、「大島郡砲兵」、「護国隊」(僧侶で編成)、「真武隊」の4隊です。このうち、「真武隊」は南奇兵隊に合流し、「護国隊」は大島宰判の飛地である対岸の遠崎に布陣します。萩藩は大島口を主戦場とは考えていなかったようです。 慶応二年(1866年)6月7日、幕府軍艦の上関砲撃により四境戦争が開戦となります。翌8日、松山藩の軍艦が油宇に現れ砲撃します。おそらく、浄西寺に砲台らしきものを確認したからでしょう。しかし、軍艦の大砲に比べると寺の砲台の大砲は旧式でかなわなかったと思われます。寺の石垣に着弾の跡が残っているらしいですが、この日は確認出来ませんでした。(ローカルガイドKSさんの投稿写真でほぼ確認できました。) 東和町教育委員会の砲台跡の碑がありました。その後の顛末はご承知のとおりです。
お世話になっております。檀家です。
途中の道が狭くてわかりにくかったです。幕末の弾痕が観られて良かったです。
こんな辺鄙な場所に突然こんな寺が。
名前 |
浄西寺(大島霊場第72番) |
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ジャンル |
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電話番号 |
0820-75-0022 |
住所 |
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評価 |
4.2 |
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この寺には古い石碑が2基あります。そのひとつには次のように記します。「阿弥陀仏 建仁二才次 石宅正国 千戌 造立願人 十一月下旬 施主清原氏」建仁二年は1202年で、鎌倉初期のことです。もともと石碑は、3基あって、左は南無観世音菩薩、右は南無勢至菩薩であったようです。が、右の方は今はなくなっています。以前は、海岸にあったのを後に浄西寺の境内に移したものです。その頃には、石宅、清原などを姓とする人びとが住んでいたことが分かります。周防国の東端の地として国の守りにあたっていた人びとかもしれません。この地には、畑の中に宝筐印塔や五輪搭のかけらがたくさんあります。室町から江戸初期へかけてのものが多いようです。それを地元の人たちは地主様とよび、さわるとたたりがあると恐れており、盆正月には墓掃除をして花をたてています。