大洲市民会館前の石碑を訪れよう!
鴻儒姜沆顕彰碑の特徴
大洲市民会館前の駐車場からのアクセスが便利です。
大洲城へ向かう途中に位置する大きな石碑が特徴です。
歴史を感じる場所として、大洲市の名所になっています。
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名前 |
鴻儒姜沆顕彰碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.0 |
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大洲市民会館前の駐車場に車を停め、大洲城に向かう途中に大きな石碑が建立されていました。鴻儒姜沆? 何方? 全く知りませんでした。しかし、これだけの顕彰碑があるのは、相当の功績がある方だろう、と石碑の説明を読んでいけば、日本の儒教に大きく貢献された儒学者と分かりました。一般社団法人PEACE ROAD in EHIME のホームページには以下の紹介がされていました。\u003c姜沆先生の紹介\u003e韓国の儒学者(1567~1618)豊臣秀吉の文禄・慶長の役のおり、大津(現大洲)藩主藤堂高虎の軍に捕らえられた、朝鮮の儒学者。伊予の大津(大洲)、京都の伏見に幽閉され、その間の生活を記録に書き記し、三年後帰国した姜沆は「看羊録」と名付けた記録を刊行した。大津城(大洲)に捕虜となった姜沆は金山出石寺の快慶住職と交流を深め、次第に日本を理解していくようになったが、望郷の念にかられていた。慶長3年(1598)4月末、大津(大洲)から脱走して板橋(宇和島)に至った。しかし渓谷を出たところで、検索中の藩の武士にとらわれ、引き回され、即刻打ち首になろうとしたが、まさに紙一重での姜沆の命は救われた。伏見に移されてからの姜沆は、藤原惺窩、赤松広通などと交流し、儒教を教えた。姜沆の学識の偉大さを知った藤原惺窩は、感動し「日本、宗儒の義を唱ふる者、この書をもって原本とせよ」と書いた。慶長5年(1600)4月2日先述した姜沆理解者たちの援助もあり、彼は公に伏見を去り、故国目指して旅立った。