琳聖太子の歴史を感じる。
瑞陽寺の特徴
瑞陽寺の本尊は薬師如来で、由来に魅了されます。
大内家初代の琳聖太子が関わる歴史的な寺院です。
宮野上にある瑞陽寺は710年以上の歴史を持ちます。
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せ赤軍派に乗っ取られた糞宗教法人。
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| 名前 |
瑞陽寺 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 電話番号 |
083-925-7603 |
| 評価 |
3.0 |
| 住所 |
|
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【瑞陽寺本尊薬師如来の由来/1992年4月文書伝】大内家の初代・琳聖太子は、朝鮮百済国聖明王の第三子として推古天皇19年(611年)に来朝、舒明天皇3年(631年)7月6日に没。十二代・大内弘真(或は弘貞)は宮野郷の領主となり周防内宮野河原奥畑に住む。居館内に堂を建て、琳聖太子の持ち来たった(一説には弘法大師作とも)薬師如来を安置して蓮花坊とする。これは大内家三宝薬師の一つである。応永十七年(1410年)大内盛見は築山に居城を築くに当たり、鬼門避けに蓮花坊を改築して廣巖山蓮花寺と改め祈願所とする。今、その跡を蓮花谷または蓮花畑という。永禄十三年(1570年)秋、大内輝弘動乱の際、兵火にあって焼失する。軍正馬光允なる者、夢告に頼って奥畑と龍華の境にある老松の下に薬師如来を拝見する。両地の者は奉安所を争う。ーー災難を避けられた故により龍華へ奉安するとする者、昔よりあった河原奥畑に奉安するとする者ーー争うこと十三年。此の間永上山に仮奉安する。ついに真前においてくじを探りこれによって龍華に決す。かたく誓って、守護佛として現在の瑞陽寺本堂の前へ荘厳なる堂を建てこれに奉安する。天正十一年(1583年)二月、入佛大供養を厳修する。天保十三年(1842年)解除令により蓮花寺建物は破壊さる。明治三年(1870年)、蓮花寺は赤妻の瑞陽寺に合併され、現在に至る。 くじにより、龍華門前に薬師如来を奉安してより実に四百余年に及べり。(1992年4月記 文書伝)【瑞陽寺 生目神社縁起/昭和11年2月文書伝】そもそも当寺境内に鎮座し給う生目神社の御本社は日向の国宮崎郡生目村に鎮座し給う県社生目神社にして藤原景清公の霊神なり。藤原景清公は伊賀の人平家の名将として武勇の誉れ高かりき 源頼朝 平氏を壇ノ浦に滅ぼすにあたり、景清憂憤措く能わず密かに逃れて尾張の熱田に匿れ頼朝を刺さんとせしも、畠山重忠のために捕えられて頼朝の前に曳き出さる 頼朝其勇に感じ宥して其の麗下に属せしめんとす 景清これを肯わず刀を抜き自ら両眼を抉り出し、頼朝に示して曰く「身に漆し炭を呑み将軍を窺う事 ここに日あり然るに不幸にして遂に捕えらる平家の武運既につきたり 何れの日か素志を遂げん されど我に明かなる両眼あればこの志止む時なけん 何ぞ両家の粟を食まん 将軍もし愛憐のこころ有らば移して衆庶を愛撫せよ」と 頼朝その義潔を賞して日向の地三百余町を与えて是に就かしむ 然れども憂憤やる方なく遂に建保二年(1214年)水に投じて没す 抉り出せし両眼はさながら生けるが如く久しく炯炯として光を失わず 依って是を神體として祀らしむ 昔より今に至るまで世人眼病に霊験顕著なりとて遠近を問わず参拝するもの常に絶えずと云う 当寺四世高巖和尚、眼病にて明を失す 常に観世音菩薩を信仰す 或る夜の靈夢に依て日向生目神社に祈願するや眼病は次第に快方に進み遂に全く平癒せり じつに霊験のあらたなるに感じ宮司の許を得て勧請式を終え下宇野令赤妻の元の瑞陽寺境内に安祀す 明治初年社寺廢合の際 瑞陽寺と共に生目神社を宮野村元の蓮花寺境内に遷す 敬白 昭和11年2月 山口縣吉敷郡宮野村 瑞陽寺(文書伝)