しだれ桜と古社が織りなす、心の参拝!
御代神社の特徴
天叢雲剣の発祥地である尾留大明神旧社地が合祀されている神社です。
本殿裏には歴史を感じる立派な古樹があり、訪れる人々を魅了します。
スサノオのミコトの伝承が息づく場所として、多くの信仰を集めています。
令和7年4月6日、しだれ桜が有名なのでお花見した後の参拝です。出雲国風土記に掲載された古社だそうです。
尾留大明神旧社地(天叢雲剣の発祥地)の合祀先。閑静な場所で、掃除も行き届いているようです。
側面二間背面三間!正面三間御扉中央一間の極めて稀な切妻造妻入り。出雲地方では稀有。他に類例がない。大社造系として良いのか?心御柱なし 礎石建ち鳥居は安永八年(1779)建立。
神社横に駐車場あり。宮司さんは常駐していないので 御朱印はもらえなかった。
みしろ神社(みしろじじんじゃ)【ビディング社】三好社神への犠牲, Su Zan Ming Wu Ming、Da Tian Dai Ming、Da Shan Dai Shen【宿泊】雲南島根県加茂町三代485稲荷神社あり2007年10月10日(原文)御代神社(みしろじんじゃ)【比定社】御代社【祭神】素盞嗚命、稻田姫命、大山咋神【住所】島根県雲南市加茂町三代485稲荷神社あり平成27年10月10日 参拝。
近くに尾留大明神があります。表示が分かりにくいので注意。
延喜式神名帳[えんぎしきしんめいちょう]ならびに出雲国風土記に登載せられた古社である。主祭神・素戔嗚尊ご鎮座の起源は遠く神代の昔にさかのぼり、尊の八岐大蛇[やまたのおろち]退治の神蹟と尊の神格により、この地方の拓殖を遂げられた御偉業に起因するものである。尊が高天原より天下り給い簸の川上に至って八岐大蛇をご退治になったとき大蛇狂乱の末その頭は下神原の草枕に、その尾は三代の地に斬り留められたと伝えられる。これを以て中世以来、社号を尾留大明神[おとめだいみょうじん]と称せられた。 特筆すべくは、元の御代神社の社地辺りが三種の神器の一つの天叢雲剱[あめのむらくものつるぎ]の発祥の地である。合祭されている大山咋命は、五穀豊穣[ごこくほうじょう]・家庭日常生活の守り神としてそんおご神徳を仰ぎ広く信仰されている。当地方は大昔から治水事業に腐心を重ね、氏神さまを中心にして生活してきたものである。その年号は不明であるが、江州・滋賀県大津市坂本の日吉退社より大己貴命[おおなむちのみこと](大国主命で国土開拓・統治された)始め二十一神を分霊勧請[ぶんれいかんじょう]したものである。 社記によれば加茂町大字三代字東に鎮座し給う日吉神社は出雲国風土記に登載されている屋代郷比和神社[やしろごうひわじんじゃ]で、その後日吉神社と称し神原村大字三代宮の東である現御代神社社地に建立された。 御代神社は式内社として、延喜年間(901〜922)に全国の由緒ある神社を調査して延喜式神名帳に登録されたものである。永正十年(1513)の古棟札を最古として以後の造立再建の棟札は保存されているが、祭神勧請の年号は不明である。当社は本来、御代神社を正号としてきたが中世以来、祭神のご神蹟により信仰上尾留大明神と称し、従って当社にある古棟札永正十年をはじめ以下天保十二年(1841)に至る十一枚の古棟札には尾留大明神と記されている。これが現社号の御代神社と称号されるようになったのは明治維新改正後のことである。明治三年(1870)に国家神道となり、明治五年(1872)に村社に列し、大正元年(1912)当社は神原村大字大津より旧日吉神社の旧社地の現在地に移転された。旧日吉神社は永禄四年(1561)より明治十六年(1883)までの造立再建の棟札が保存され、これによれば本殿、拝殿、随神門を有する立派な社殿であったが、大正元年に本社に合祀りされた。追記 三種の神器の一つ「天叢雲剱」は、これより西方約500mの大津地内にある旧社地あたりが発祥の地である。
スサノオのミコトがヤマタノオロチを退治後、その尻尾からアメノムラクモを見つけたとされる伝承地が、この神社に合祀されたとのこと。神社の作りも立派だが、印象に残ったのは、境内内に敷き詰められた白く細かい玉石。踏みしめるとぎゅっぎゅっと沈み込む感じがいい。
みしろじんじゃ。
| 名前 |
御代神社 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 電話番号 |
0854-49-6410 |
| HP |
http://www.jinja-net.jp/jinjacho-shimane/jsearch3shimane.php?jinjya=29909 |
| 評価 |
4.3 |
| 住所 |
|
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御代神社(みしろじんじゃ)。島根県雲南市加茂町三代。式内社(小)、旧村社。【祭神】素盞嗚命 稻田姫命 大山咋神資料によると、出雲国風土記の「御代社」に相当する。「斐伊川」中流域沿い、支流「赤川」とに挟まれた「雲南市加茂町三代(みしろ)」に鎮座する社。素盞嗚尊が八岐大蛇を退治した際に、大蛇狂乱の末、頭は「下神原」の「草枕」に、尾は「三代」に斬り留められたと伝わり、当社は中世には「尾留大明神」と称されていたとのこと。記紀神話においては大蛇の尾から「天叢雲剣(草薙剣)」が取り出されたとされることから、その発祥地として考えられています。なおその三種神器の一である「草薙剣」は、現在は熱田神宮に御神体として鎮まっています。「頭は下神原の草枕に…」とありますが、北西500~600mに鎮座する八口神社(加茂町神原)においては、「草枕山」を枕に伏し寝ていた八岐大蛇に矢を放ち仕留めたと伝えられています。現在は「草枕山」は「赤川」の治水事業により消滅。創建年代は伝わっていないようですが、「出雲国風土記」記載の「御代社」、「延喜式神名帳」記載の「御代神社」に比定されており、その頃には既に創建済みであったとみられます。かつては「御立薮(おたてやぶ)」という地に鎮座。延享元年(1744年)に「斐伊川」の氾濫により、南200mの「大津の丘」丘陵中腹に遷座。現在はそちらに旧社地として石碑が建てられているようです(当社より北西500mほど)。そして大正元年に現社地の「三代東」に遷座するに至ったとのこと。現社地にはかつて日吉神社が鎮座していたらしく、移転合祀されたようです。現在は配祀神として大山咋命が鎮まります。ところがこの日吉神社は「出雲国風土記」記載の「屋代郷比和神社」に比定されています。どうやらいつの頃からか日吉大社より大山咋命が勧請され、社名も変わっていたようです。とあります。