西の丸から美しき天守閣。
西の丸跡の特徴
夕陽に染まる天守閣の美しさが西の丸跡の見どころです。
百間廊下を巡ると江戸時代にタイムトリップした気分を味わえます。
夜桜のライトアップ会場として桜と天守閣の撮影スポットが充実しています。
長い百間廊下を歩くと往時の面影を垣間見ることができます。また窓から見える本丸天守がまたいいんです。桜の季節は最高でしょう。
西の丸跡から見える姫路城もきれいでした千姫や歴代の姫路城の城主の資料などがあって興味深く見ることができました。
西の丸から見る大天守は圧巻!千姫もこの景色を眺めていたのでしょうか。
面倒でも西の丸にくれば、美しい大天守のアングルで写真撮ることができるし。櫓の中に入れば姫路城の豆知識について学ぶことができます。
☆現在、西の丸の真ん中には建屋などなく広々とした庭園、元々は標高36mの鷺山を削平して曲輪に造成😲1618年(元和4年)から藩主「本多忠政」が嫡男「本多忠刻」と徳川家康の孫娘で忠刻の正室「千姫」が暮らす「西の丸御殿」建造👀☆周囲を渡櫓と土塀を巡らし、今も6棟の櫓に4棟の渡櫓、特に「ワの櫓」から「化粧櫓」まで約250m(百間廊下)の多聞櫓を間近で見ると威容壮観、北東に天守ある本丸、一段低い二の丸を挟んで西の丸、立地を見ると本丸に対し一城別郭のように西に突き出た縄張の西の丸、西方に睨みを効かす姫路城🏯千姫櫓や長局と言った優美な姿の中に高石垣に石落を多数備えた長大な櫓群で威容示し防御最高、凄い⚔️
姫路城通常公開エリア・西の丸…ここは徳川第2代将軍徳川秀忠公の娘の千姫を迎えるために増築造営されたところです。※本多家を紹介します。池田家が因幡鳥取藩に移封後、徳川四天王の一人本多忠勝の子忠政が15万石で入封します。さらに忠政の甥正勝は播磨国龍野藩5万石、忠政の嫡男で徳川第2代将軍徳川秀忠公の娘の千姫(豊臣秀頼未亡人)と結婚した忠刻が父とは別に播磨国内に化粧料の10万石を領し、これにより播磨本多家は総計30万石で固められます。その後忠刻は父忠政に先立って病死し、忠刻の弟で播磨国龍野藩の藩主だった政朝が姫路藩15万石を継ぎ、残り10万石の内、忠政の三男忠義が4万石、忠勝の外孫の小笠原長次が6万石(播磨国龍野藩→豊前国中津藩へ)分割されました。西暦1639年に本多政朝が39歳で没後、本多正勝が跡を継ぐも大和国郡山へ15万石へ移封されます。・播磨国内の本多家以外の領地…本多家以外の播磨領徳川一門で松平信康の娘登久姫(峰高院)と熊姫(ゆうひめ)(妙高院)姉妹が嫁いだ播磨国明石藩10万石(小笠原家)、家康公の愛娘督姫(池田輝政公後妻、良正院)の化粧料の播磨国赤穂藩35000石と平福藩25000石に山崎藩(もしくは宍粟藩…しそう)38000石。池田家一族の鵤(いかるが)池田家10000石(新宮藩)、建部家が領有する10000石(林田藩)がありました。※戦国時代最強無双の漢(おとこ)。本多宗家、本多忠勝を紹介しましょう。本多忠勝…本多平八郎忠勝。上総国(現在の千葉県)大多喜藩10万石初代、伊勢国(現在の三重県)桑名藩11万石初代。忠勝系本多宗家初代。従五位中務大輔。徳川十六神将の三傑。生涯57戦57勝無敗。かすり傷一つ負わなかった古今無双の最強武将。13歳で桶狭間の戦いの前哨戦、大高城の兵糧入りで初陣、三河の一向一揆、上ノ郷城攻め、牛久保城攻めで武功を挙げる。19歳で旗本先手組に抜擢され与力54騎を付与され一軍の将となります。【旗本先手組とは…自身の護衛は勿論、積極的に戦闘へ赴き、または突入することを目的にした城下常駐部隊のことをいいます。】姉川の戦いでは主君家康公の軍に、朝倉軍10000が迫る中、なんと忠勝単騎で朝倉軍10000に立ち向かい朝倉軍を討ち倒します。そこで朝倉軍の豪傑、真柄(まがら)十郎左衛門との一騎打ちで見事に十郎左衛門を討ち取り勇名を馳せる。二俣城の戦いの前哨戦一言坂の戦いでは偵察部隊として先行したが武田本隊と遭遇。武田本隊の猛追に家康公が危険にさらされると大久保忠佐(おおくぼ・ただすけ)と共に殿役(部隊の一番後ろ)を努め、不利な状況にあったが武田軍の武田四天王の猛将、馬場信春相手に奮戦し家康公を無事逃がしている。そして自身もかすり傷一つ負わずに撤退している。この時着用していた兜と鎧が、本多忠勝の肖像画に描かれている鹿角の兜に黒糸縅(くろいとおどし)の鎧でした。この時に有名な格言が出ます。武田軍の将の小杉左近から「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」。三方ヶ原の戦いでは左翼を担い、武田四天王の猛将、山県昌景隊を撃退させ、長勝城攻めでは徳川四天王の榊原康政と共に武田軍に完勝して長篠城を奪いとり城を守る。その後、長篠の戦い、高天神城争奪戦に従軍し敵、味方問わずに忠勝は賞賛される家康公からは「まことに我が家の良将なり」又、敵や味方からは「かげろうが出ると蜘蛛の子散らすなり、手にかげろう、頭の角のすさまじき、鬼か人か鹿かわからぬ兜なり」と忠勝の鬼神ぶりを詠んだ川柳がある。また長篠の戦いでは、織田信長公が忠勝のその並外れた武勇に「花も実も兼ね備えた武将」と言わしめている。本能寺の変でも家康公が京都に行き、織田信長公の後を追うと取り乱した時もいさめて伊賀越えに同伴する。小牧・長久手の戦いの時は留守を任されたが豊臣軍160000に家康公が苦戦し総崩れされていると知るや、僅か500の兵を率い小牧から馬を駆け5町(500メートル)前で豊臣軍の前に仁王立ちで立ちはだかり、竜泉寺川に単騎で乗り込み悠々と馬の口を洗わせました。この振る舞いに豊臣軍は進撃を止め撤退しています。この豪胆な振る舞いや鬼神ぶりに東国一の勇士と賞賛され、豊臣秀吉公からは「日本第一、古今独歩の勇士」「東に本多平八郎忠勝という天下無双の大将がいるように、西にも立花宗茂という天下無双の大将がいる」と勇将を引き合いに出し賞賛した。そしてこの戦いで福島正則と加藤清正は、単騎の忠勝を打ち取るべしと秀吉公に進言するが、姉川の戦いでの忠勝の鬼神ぶりを目の当たりにしている秀吉公は涙を浮かべて福島正則と加藤清正に「わざと寡兵で我が大軍に勇を示すのは、我が大軍を随時食い止めて、家康の軍を遠ざける為であろう。徳川家を滅ぼした後で、忠勝を生け捕りにして我が家人にすべきなり」と忠勝討ち取りをいさめている。つまり、福島正則と加藤清正が逆に忠勝に討たれるかもしれない。我が軍160000が大敗するかもしれないということである。また織田信長公の次男の織田信雄にも賞賛され法成寺という名刀を賜る。小牧・長久手の戦いの戦後、秀吉公に召し出された時に家康公陣営から自身の所に来ないかとヘッドハンティングをする「秀吉の恩と、家康の恩、どちらが貴殿にとって重いか?」と問われ、忠勝はこう切り出す「秀吉公の御恩は海よりも深いと言えども、お館様(家康公)は譜代・相伝の主君であり月日の論で語るには及びがたし」つまり、秀吉公の情けは大変ありがたいが、家康公の恩は我ら譜代の家臣の祖先や子孫の全てであって昨日今日の月日では語れないくらいの恩があると一喝してみせました。そして秀吉公の天下となり、家康公が関東に国替えとなると上総国大多喜に榊原康政と共に徳川家第2位の10万石を与えられます。(因みに第1位は井伊直政で12万石)有力家臣が江戸からわざと遠くにしてあるのは理由があって敵が攻めてくる国境付近に有力家臣を配置するという家康公の配慮があったためである。本多忠勝と榊原康政は、沼田の真田親子と、会津若松の上杉景勝、仙台の伊達政宗に対する備えの他に、館山付近の里見家の動向の監視、北条系家臣の分断・制圧を目的でした。関ヶ原の戦いにおいては、上田城攻略で真田家内の裏切り交渉に成功し、竹ヶ鼻城攻めや岐阜城攻めにおいては、島左近に敗れた中村一氏(かずうじ)や有馬豊氏(とようじ)を助け、毛利家側の吉川広家や他の豊臣恩顧の諸大名に井伊直政と共に連判状を作り東軍側に寝返らせることに成功する。関ヶ原の戦いの本戦にも参戦し、僅かな手勢で石田三成軍に強襲して90の首級を討ち取る。また、東軍の前に毛利・長宗我部軍が立ちはだかった時に東軍の士気が下がった時も「もし、毛利と長宗我部が戦う意志があるなら、やつらは山の上でなく山の下に陣をはるが、ずっと山の上居るから、やつらは戦う意志はない」と味方を鼓舞した逸話がある。戦後、上総国大多喜から伊勢国桑名に10万石で移るときも、当初は5万石の加増が約束されていたが断る。そのため、家康公はなんとか5万石を戦功として与えるべく忠勝の次男忠朝に旧領上総国大多喜に与え決着する。それから忠勝は伊勢国桑名に居城と城下町整備を行います。また藩政に着手し、宿場町も整備して、民衆からは名君として人望も厚かった。数多の戦で大活躍し、数多の首級を落としている。福島正則は関ヶ原の戦いや数多の戦で忠勝のことをこう言っている「采配が良かったんじゃない、敵が弱すぎただけ」つまり、運の良し悪しや采配が上手く行ったのではなく、忠勝の敵が出来る将兵が居ないくらい忠勝が強すぎたと言っている。天下泰平になると忠勝は江戸幕府中枢から退く、変わりに台頭したのが本多正純等の軍師として家康公を支えた文官系だったからである。忠勝は何度も隠居すると願い出るも家康公と秀忠公は江戸に留まるように要請する。慶長12年(1607年)に眼病を患い、2年後の慶長14年(1609年)についに隠居をする。忠勝が死ぬ1年前に手元が狂いかすり傷を負ってしまい「本多忠勝も傷を負ったら終わりかな」と呟く。これが本当になり慶長15年(1610年)死去。63歳。死ぬ間際にこう言い遺す「侍は首を取らずとも不手柄なりとも、事の難に望みて退かず、主君と枕を並びて討ち死にをとげ、忠節を守るを指して侍なり」「死にともな、嗚呼死にともな、死にともな、深き御恩ね君を思えば」と遺す。※化粧櫓では千姫について紹介します。※姫路城東小天守では、本多家の前の池田家について紹介をしています。
西の丸は戦国穂一の姫君でもある千姫の為に作られた化粧櫓が有るなど、大奥の様な女性の世界だったとされる。姫路城の西側は女の世界、東側は戦城としての男の世界。西の丸は百問廊下でカの櫓、ヲの櫓、ルの櫓、化粧櫓に囲まれていて、化粧櫓下の石垣には二人の夫と長男を亡くした千姫を祈祷した陰陽師が残した五芒星が刻まれている。姫路城屈指の写真スポット、西の丸東側にはトイレもあります。
夕陽に染まる天守閣は美しい‼️
本丸より西に位置するため名づけられたエリア。江戸時代に本田忠刻が千姫をめとったときに、拡張し、千姫の化粧料として石高が加増した際に櫓などが増設。ここから見える天守閣も美しく広い場内でも必ず立ち寄りたい場所の一つです。
| 名前 |
西の丸跡 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 電話番号 |
079-285-1146 |
| 営業時間 |
[水木金土日月火] 9:00~16:00 |
| HP | |
| 評価 |
4.5 |
| 住所 |
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結構な人がそのままこちら寄らずに姫路城本丸に行ってしまいますが、こちら西の丸も百間廊下、化粧櫓など見どころが沢山あります。