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名前 |
本戸城趾碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP | |
評価 |
4.0 |
三宅藤兵衛の墓から車で5~6分で天草キリシタン館周辺の駐車場に着く。県道からキリシタン館(本戸城趾)へ登る道はかなり広いが一方通行である。駐車場はキリシタン館へ行く道路の途中に3ヶ所位あったが、私は時間がなく急いでいたので一番奥のキリシタン館正面の駐車場へ車を停めた。道路からキリシタン館のある高台(郭跡)まではエスカレーターが付いている。エスカレーターで郭に登ったのは初めての経験か?(いや? 似たような経験で、群馬県の佐野駅で、エスカレーターで駅改札階まで上がり、城山公園口改札を出たら、そこが佐野城の三の丸跡という体験があった。)余談でした。笑笑「本戸城趾」碑は天草キリシタン館の裏にある。ただ、本戸(本渡)城の城域は明確ではないようであり、Googleマップの示す本戸城跡は、ここより北西の明徳寺背後の丘陵地帯にある。城跡広域説をとるとGoogleマップの本戸城跡が本丸跡、「本戸城趾」碑の郭が二の丸跡、更に殉教公園のある郭が出丸跡になるそうである。因みに、私は見過ごしたが、出丸跡にも城址碑があるようである。一方、城跡狭域説をとると、「本戸城趾」碑のある郭が本丸跡になる。いずれにしても、この「本戸城趾」碑のある郭で数多くの土師質土器[はじしつどき](特別な儀式や宴会など非日常的な行事で使われた)が出土しているので、ここは本渡城の中枢部であったと推測できるそうである最後になったが、本渡城は戦国時代の有力国人「天草5人衆」の中で最も勢力を有していた天草氏の拠点城郭である。天草5人衆は、天正十五(1587)年の秀吉の九州征伐では、秀吉に帰服したので所領を安堵されたが、その後、肥後国主佐々成政[さっさなりまさ]失脚の後、肥後南半国の国主となった小西行長の、新たな宇土城築城の普請手伝いを拒否して反抗した。そこで行長は加藤清正の援軍を得て、天正十七(1589)年城主天草種元[たねもと]の籠城した本渡城を攻撃した。この時、行長は敬虔なキリシタンであり、同じキリシタンである種元や籠城者への情から積極的になれず、清正が専ら激しく攻城した。籠城勢は頑強に抵抗したが、遂に本渡城は落城し、種元は切腹した。《2023.7.20訪問》