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相模の国渋谷庄の領主渋谷光重は宝治元年(一二四七年)それまでの戦功により、千葉氏の遺領東郷、祝答院、鶴田、入来院、高城五ヶ郷の地頭職を賞賜された。同二年光重の二男質重以下五兄弟が薩摩に下向、そのうち寛重は東郷を領することとなつたが、在国司大前氏は東郷の地を去らず、依然としてその威を振いつづけたため、賓重以後数代に亘って渋谷氏はこれと千戈を交えることになる。五代重親もホ、しばしばこれと交戦したが利あらず、この為重親は弟氏重に家を譲り、慨然誓って云うには「我生きて大前に隣つこと能わず、寧ろ死して家下の鬼となり彼を滅さんのみ」と甲冑を装い芸毛の馬に騎し、渕協山なる此処の土穴に駈け入つて死んだと伝えられる。時に徳治三年(一三〇八年)九月二十三日、行年僅か二十三才であつた。往時はその墓に大徴があったが枯死したため、天明元年(一七八一年)この霊跡が絶えることを虞れた木脇喜太郎祐貞、肥後十左衛門の二人が建理したのがこの墓碑である。