猪を撫でる幸せ、馬見岡綿向神社。
馬見岡綿向神社の特徴
日野祭の日に訪れた時、大嵩神社の素晴らしさを実感しました。
馬見岡綿向神社は、独自の文化と自然が調和した神聖な場所です。
神様の使いとして珍しい猪を讃え、見応えのある社殿が魅力です。
舌を噛みそうな「うまみおかわたむきじんじゃ。」Pは境内南の左右に計10台。神社だけでなく徒歩で日野散策をご予定のかたは、すぐ南のふるさと館のPが良いです。本殿の裏に回って猪さんを撫で撫でするらしい、知らずに帰ってしまった。
2024年10月訪問。猪で有名な神社。戦国大名の蒲生一族や近江商人のひとつ「日野商人」が守った神社で、日野商人にゆかりのある各種寄贈が当時の日野町の繁栄を偲ばせます。纏向とが、この街の神様のひとつが纏向山なので、その纏向にちなんで名付けられたのではないかと思われます。日野町では、毎年11月10日を『綿向山の日』としているそうです。
日野に住み出してから毎年のように初詣に行かせてもらってますが、今年は初めて元旦にお詣りしました。駐車場がいっぱいなのでは?と思ったら意外とすんなり止めれました。時間が昼時だったからなのか?ただお詣りするのに少し10分ほど並ぶ必要がありました。この神社は本殿の裏に神様に1番近い場所という裏側からお詣りする場所があって面白いでぜひ裏側からもお詣りしてみてください。
24年05月 日野祭に行きました。晴天に恵まれ、活気あふれる祭でした。お神輿三基や山車十基、見ごたえがあります。22年05月 参拝しました。
会津若松の地名の由来なった森神社境内は大変手入れよく、清浄でチリ一つおちていない。掃き清めたような雰囲気。思っていたより大きな神社で、しかも造作等が素晴らしい。日野という町はやはり凄い。日野は中世以来の都市で、日本で最も古い都市であるらしい。綿向神社の近くにあるのが若松の森で、蒲生氏郷が会津黒川に移封後、黒川を会津若松と改名したのは、この若松の森に由来するらしい。東北出身なので、会津若松は小学校の遠足の定番だったし、白虎隊は「英雄」として語り継がれていた。その会津が実は日野の殿様だった蒲生氏あっての街だったことを知ったときには「さすが近江の殿様」とうれしかった。いまでも会津若松市には甲賀町(もとは日野町であったが「火の町」に繋がるとして日野のとなり甲賀へと町名を変更)や何件か近江屋の屋号を持つ商店が存在する。また会津の名産である会津漆器は、会津の漆と日野椀の技術が融合したものらしい。おそらく氏郷は当時は後進地であった奥羽に、日野の人々を有能なテクノクラートとして連れていったのではないか。彼らを連れていけば、新しく城下町を作ることは容易くなる。城下町を近隣の商業の中心とすることも容易くなる。なんといっても彼らは先進的な工芸、商業、遠隔地交易や社会の生成において先進的な技術を身に着けていた人々だ。それほど当時の日野は、近江は「先進地」だった。そして日野の人々も地生えの蒲生氏によく懐いたのみならず、この殿様が民に利をもたらすことを知っていた。ゆえに松坂でも会津でも、ついて行った。蒲生氏郷は有能な戦闘指揮官、文化人、行政官だった。しかも古くからの豪族で信長の娘婿という筋目もよかった。優秀すぎる故に秀吉に疎まれ、90万石の大封をもって辺境の地の会津へと移封されてた。などと考えながら境内を歩くと、大変に気分がよかった。
2023年5月 日野祭の日に行きました。境内が広く、社殿も大きくて立派でした。
独自の文化と自然が存在してる。その場は異世界につながり、高貴な力が存在している。悩み事がある人は1度訪れて見るほうがよいかも?訪れたときに風が吹いて、心地よさを感じたら歓迎されているかもしれない。
神様の使いの猪です。足腰が強くなるように触れさせてもらいました。合掌神社はさすが蒲生家にも近江商人にも篤く信仰されただけあって、荘厳で美しく、神秘感も漂ってました!
昔から地元の日野商人に愛されている歴史ある神社。参道には芝生がひかれており、ゆったりとした気分で参拝することが出来る。5月には日野で最大の祭り“日野祭”が行われている。
| 名前 |
馬見岡綿向神社 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 電話番号 |
0748-52-0131 |
| 営業時間 |
[水木金土日月火] 9:00~16:30 |
| HP | |
| 評価 |
4.3 |
| 住所 |
|
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馬見岡綿向神社(うまみおかわたむきじんじゃ)。滋賀県蒲生郡日野町村井。式内社(小)馬見岡神社(ムマミヲカノ)二座、旧県社。綿向山(わたむきやま)の山頂に祀られている大嵩神社の里宮。主祭神:綿向山を神体山とし、出雲系(ホヒ家)の三柱を祀る。天穂日命(アメノホヒノミコト) - 綿向大神天夷鳥命(アメノヒナドリノミコト)武三熊大人命(タケミクマオウシノミコト)資料によると、神武天皇の時代に出雲国の開拓神を迎えて祀り、545年(欽明天皇6年)に綿向山の頂上に祠を建てたのが始りと伝えられ、平安時代の初期の796年(延暦15年)に現在の地に移転されたとされている。中世の1209年(承元3年)に境内の社殿がすべて焼失する火事があったが、社殿が再建されたのは181年後の1390年(明徳元年)のことであった。蒲生氏の庇護中世後期には日野に城下町を築いた蒲生氏が氏神として庇護し、蒲生上郡の総社として崇敬を集めた。1521年(大永2年)に兵火で焼けた社殿は、1549年(天文18年)に蒲生定秀、1571年(元亀2年)蒲生賢秀によって修復された。蒲生氏郷は1584年(天正12年)に伊勢に、その後会津に移ったが、当神社への寄進は続けていた。会津黒川に転封した際、この神社の参道一帯にあった「若松の森」と呼ばれた松林を偲び、新たな領地「会津黒川」を「会津若松」に改名したという。氏郷のあと蒲生氏は秀行・忠郷・忠知と引き継がれてゆき、領地も会津の後は宇都宮・会津・松山と転封するが、綿向神社への寄進は継続していた。しかし1634年(寛永11年)当時伊予松山藩主であった蒲生忠知が嗣子なく没して蒲生家は残絶したため、蒲生氏からの庇護はなくなった。近世には近江日野商人(近江商人)が出世開運の神として崇め、近江日野商人から寄進された拝殿・絵馬殿・石灯籠・石橋などが境内に残る。綿向山の頂上に祀る綿向神社の奥宮である大嵩神社(おおだけじんじゃ):綿向大神(天穂日命)。とあります。